アマチュア時代 1


025 (1)    地方巡業 長崎県諫早市 Nagasaki Prefecture Isahaya
私の故郷での地方巡業でした、これから私の写真の歴史とも云える。
アマチュア時代1965年頃、大相撲がやって来た。
早速、私の初期のカメラ、コニカV型だったと思う?
コニカのV型は当時レンズの解像力テストで一番だったと思うが?
54年前の事でハッキリした事は私も自信が無い(1965年頃 ・ 撮影)。


025 (2)    やぐら 長崎県諫早市 Nagasaki Prefecture Isahaya
やぐらから太鼓の音が聞こえて相撲が始まる・・・ 私も当時は胸に高まりを感じた。 勉強よりスポーツ派だった。 野球 ・ 水泳 ・ 鉄棒とマラソンが得意のスポーツ少年だった。 プロ写真家に憧れて常にカメラを手にしていた。 大阪に来る迄は白黒フイルムだけでした、そのフイルムも劣化が始まり酢の臭いがしてきたので処分する事に・・・
全部ではないがCDで記録する事にした。 思い出と私の歴史を自分の為と周辺の方に知って頂くよう このコーナーに入れました(1965年頃 ・ 撮影)。


025 (3)    或る日の佐田の山関 A 長崎県諫早市 Nagasaki Prefecture Isahaya
地方巡業が我が故郷の諫早に大相撲が・・・
当時は恐らく人気があったと思う?
何故か大衆浴場を貸切で入浴に来られた。
佐田の山関は第50代の横綱、
私の母の故郷、五島列島有川町出身だったのでより身近に感じました。
その後理事長まで昇り相撲協会の頂点に立たれた(1965年頃 ・ 撮影)。


025 (4)    或る日の佐田の山関 B 長崎県諫早市 Nagasaki Prefecture Isahaya
既に人気があったのでしょう?、サインを求めて待っている方がいた。
付き人の方が変な眼をしているので迷惑だったかも?
私もカメラを持って夢中でシャッターを押していたら状況の把握が出来なかった。
大勢のファンが取り囲み、押し合いへし合いになりました、
現在なら大変だろうと思う(1965年頃 ・ 撮影)。


025 (5)    大衆風呂の前 長崎県諫早市 Nagasaki Prefecture Isahaya
各部屋の力士達が順番にフロに入り、私は初めてこの様な珍しい光景に出会いました。
その後この様な経験はありません、現在は地元寝屋川市の豪栄道が大人気です。
隣町は宇良と云う新進の力士がいますが、7月現在怪我で休んでおられます(1965年頃 ・ 撮影)。


025 (6)    タバコ一服 長崎県諫早市 Nagasaki Prefecture Isahaya
力士の名前は分りません? 多分、幕の内の力士だったと思っているが? 50年以上も前で白黒フイルムが出て来たので処分する前、CDに残しました。
JPSの研究会で松本徳彦副会長が挨拶された時、古くなったフイルムは劣化して酢の臭いがすると言っていた。
そうなるともう復活は無理な様でした。 その話を聞き早速CDにして処分する事に・・・(1965年頃 ・ 撮影)。


025 (7)    見物 長崎県諫早市 永昌東町にて Nagasaki Prefecture Isahaya Eishohigashi-Cho
近所の方が力士を一目見たいと見つめられていた。
私は記念にシャッターを押した、皆さんの笑顔が忘れられない、光も良かったかも? 綺麗に撮れている。
50年の歳月はどなたかは知らない、私の故郷、永昌東町のみなさんです(1965年頃 ・ 撮影)。


025 (8)    豊山と豊登 A 長崎県諫早市 Nagasaki Prefecture Isahaya
大衆フロ屋さんに力士の方はトラックで来ていた、
ふと見ると豊山関と豊登関が仲良く並んでいたのでトラックの下からスナップした。
10枚程シャッターを押したのを覚えている、
その頃からシャッターを沢山押す癖が出ていた(1965年頃 ・ 撮影)。


025 (9)    豊山と豊登 B 長崎県諫早市 Nagasaki Prefecture Isahaya
私はこの作品が気に入り、月刊フォトコンテストの月例に応募した、予選通過でした。
それでも初めて出品した月例に自分の氏名が載っただけでも嬉しかった。
編集長は笹屋みつ子さん、評論家の吉村伸哉さんら、当時面白い記事が多かった。
豊山関は先代で大学卒の力士として大関まで昇進され大人気でした、
一方の豊登関はプロレスに転向、両手で脇の下で音を鳴らす芸で大人気でした。
私は数年後プロレスファンになり、大阪府立体育館まで見学に行く程プロレスが好きでした。
力道山 ・ ジャイアント馬場 ・ アントニオ猪木 ・ ストロング小林、
ストロングさんはタレントに転向しストロング金剛と名乗った。
1990頃CM撮影をしました(1965年頃 ・ 撮影)。


025 (10)    歌舞伎座 大阪市 Oosaka City
大阪難波の夜、マミヤ6×6を持ち三脚を使用しながら街の夜景を撮影していた。
現在、歌舞伎座の後は2018年7月現在ビジネスホテルを建設中です。
街の姿も徐々に変わり私も大阪に来た1964年頃から随分変化した。 ネオンの文字やビルも?
私は現在ミナミや道頓堀を重たい荷物と三脚は辛くなりました(1965年頃 ・ 撮影)。


025 (11)    道頓堀の夜 A 大阪市ミナミ Oosaka City Minami
1965年頃の道頓堀を6×6版のモノクロ(白黒)で10本程と
他にカラーのR(スライド)アナログでも数本撮影した原版が残っています。
大阪の街を撮るきっかけは二科会の青木君夫先生の影響だろうと思う。
先生は主にモノクロ主体で心象写真の大家です。
2018年7月現在、元気で97か98才になっておられます。
私の弟子、山本久右衛門さんとほぼ同じ年齢、元気な人は何時までも元気!!
羨ましいです(1965年頃 ・ 撮影)。


025 (12)    道頓堀の夜 B 大阪市ミナミ Oosaka City Minami
同じ所を縦で撮影、車も時代を感じます。 初心者の私はカメラを本格的に持って1〜2年です。
写真学校は大阪の日本写真専門学校。 さとう健先生 ・ 秋田鉄周先生が人気でした。 日本では最初の写真専門学校です、
青木君夫先生のクラブ例会でお初天神の多重撮影作品で一席を頂いたのが思い出として残っています(1965年頃 ・ 撮影)。 


025 (13)    大阪市の夜街 大阪市梅田 Oosaka City Umeda
多分、阪急東通りだたと思う? 梅田の阪急東通りをピントが来る様に絞り込んで撮影、
夕暮れネオンに灯が入った頃でした。 阪急東通りはどちらかと云うと飲み屋街で有名でした。
私も若い頃は飲まないのに良くウロウロして遊んでいました。 コーヒーを飲みに良く行きました(1965年頃 ・ 撮影)。


025 (14)    通天閣 大阪市浪速 Oosaka City Naniwa
通天閣も良く行きました。 その当時、関西の写真家で井上青竜と云う大作家が釜ヶ崎の作品を発表されていました。
私たち若いカメラマンも当時は少なからず影響を受けました。 私も数回、釜ヶ崎まで足を運びましたが怖くて、それ以上が行けなかった、
井上青竜さんは今思うと凄い作家だと思っています(1965年頃 ・ 撮影)。


025 (15)    街角 大阪通天閣 大阪市浪速 Oosaka City Naniwa Tsutenkaku
恵美須町の交差点で撮影、数年後、私の会社の支店、三和カラー恵比寿店が出来ました。 3年程私も居ました、大阪市順慶町に本社が出来て私は本社に移動しました。
1978年2月、太陽賞(平凡社)発表まで勤めました。 2月に平凡社から発表され、2月いっぱいで退社して以降フリーで現在に至ります。
やっとプロの道が開けました、当時写真界の芥川賞と云われプロの登竜門でした(1965年頃 ・ 撮影)。


025 (16)    住吉大社 A 大阪市住吉区 Oosaka City Sumiyoshi-ku Sumiyoshi Taisya
住吉大社は大阪の名所で恐らく一度は皆さん行く事でしょう。
全国にある住吉神社の総本社、本殿は国宝に指定されている。
古くはヤマト王権の時代の外交上の要港だったとか?
大阪のカメラマンなら一度は撮影に出かける所だと思う?
私も御多分にもれず何となく住吉大社へは数回訪れてシャッターを押していた。
この作品は夕暮れ時ネオンに灯がともる頃だった、
鳥居をシルエットで作画(1971年頃 ・ 撮影)。


025 (17)    住吉大社 B 大阪市住吉区 Oosaka City Sumiyoshi-ku Sumiyoshi Taisya
住吉大社の太鼓橋です、夕暮れでした太鼓橋は朱塗りです。
橋の長さは20m ・ 木造桁橋 ・ 高さ4,4m ・ 半円状に沿っている。
関西夜景百選にも選定されていて名所と云える。
歴史的に豊臣秀頼または淀殿が造営したとも?(1971頃 ・ 撮影)。


025 (18)    住吉大社 C 大阪市住吉区 Oosaka City Sumiyoshi-ku Sumiyoshi Taisya
提灯のぼんぼりがあるので正月に行ったかも?
人物はシルエットなのでハッキリ分らず、着物姿もいますから多分、正月だったと思っている。
フイルムは既にカビがきて埃いっぱい、このコーナーに入れてフイルムは処分します(1971年頃 ・ 撮影)。


025 (19)    社内報 大阪市住吉区 Oosaka City Sumiyoshi-ku Sumiyoshi Taisya
大阪市のアメリカ村に当時、印刷会社があり、営業に牧平宝造さんがいました。 私の故郷、長崎出身で意気投合しました。
私は当時アマチュアカメラマン、プロ志向の半プロだった、彼は私の作品を色々な会社に売り込んで頂いた。
そのお陰で色々な会社のCM写真に採用して頂き、今も思い出と共にお世話になった事は常に忘れていない。 近年20年会っていないがどうしているのだろうか?
カタログに使用して頂いたのは撮影してから3年程経ってからだった。私事、私の作品は殆んど撮影してから数年後に採用されている。
1980年から自分で直接販売するライブラリー(フイルムのリース会社)を開設し、主に広告会社とタイアップしてフイルムのリースをしていた(1971年頃 ・ 撮影)。


025 (20)    住吉大社 大阪市住吉区 Oosaka City Sumiyoshi-ku Sumiyoshi Taisya
太鼓橋から鳥居に向かって撮影、印刷会社の牧平さんとは約30年ほど、彼が独立してからも付き合い私の人生の中で忘れられない人でした。
歳も私と殆ど差のない年頃、どうしているのだろうか? 私は自分の写真人生に夢中で過去のつながりがある友人もほったらかし・・・
ようやく人生を考える頃、色々な事を写真を通じて思い出している(1971年頃 ・ 撮影)。


025 (21)    夜店 A 大阪市 Oosaka City 
同じフイルムの中に作品があるので多分、大阪市の戎神社だと思っている?
夜店を3人でお子様に買物されている所をスナップ、女性の方は凄く美しい方だった。
お子様が持っているのを見るとひょっとしたら、えべっさんかも?
50年近く前の事ですので記憶がはっきりしない。
私は1978年1月でモノクロ(白黒)フイルムの撮影は終わりにしていたと思っている。
白黒フイルム使用はアマチュアの14年間だけでした(1974年頃 ・ 撮影)。


025 (22)    夜店 B 大阪市 Oosaka City 
恵美須町の今宮戎神社ほか夜店の風景は何となく私は好きだった。
青木君夫先生のクラブ、西嶋保介氏の秀影クラブの両方の例会用作品をカラー7割、モノクロ3割で撮影していた。
当時1970年代、モノクロは世間で9割、カラーは1割と殆どモノクロが主流でした。
私は今、カラーがチャンスだと思い全てカラーに切り替えた、私は早くから眼を付けていた。
当時カラー写真で作品を創るアマチュアの人は少なかった、
私はカラーの時代来ると先読みし料金は高くなるけど、思い切りカラーリバーサルフイルムを使用した(1972年頃 ・ 撮影)。


025 (23)    神社にて 
作品は何処で撮影したか? 全く分らない。
撮影データをこまめに書いていたら良かったと、今になって後悔している。
デジタル時代だと撮影日 ・ カメラ名 ・ レンズの焦点距離 ・ 絞り ・ シャッター速度 ・ ISOと本当に便利になっている。
作品は当時、写真界では土門拳さんブームでリアリズムから古寺巡礼と、土門さんに憧れて私は影響を受けていた(1968年頃 ・ 撮影)。 


025 (24)    古い寺にて
作品は何処で撮影したか?分らない、フイルムを整理処分の際に年代が同じ所に入っているので分るが!!
作風は当時社会派で土門拳さんのリアリズム運動はまだ残っており、私は土門さん、濱谷浩さんの作風に憧れていた。
その考えは今も変わっていない、土門さんはその年に2回倒れられたと聞く(1968年頃 ・ 撮影)。


025 (25)    
影のキツネから京都伏見稲荷神社だと思う?
私の所から30〜40分ですので初期に数回行ったのを覚えているが・・・ここ40年行った記憶はない。
近年、外国の方が多いと聞き、人も多そうなので行く気は全くない(1968年頃 ・ 撮影)。


025 (26)    境内 B 
この作品も全く同じで撮影した場所も覚えがない。
アマチュアカメラマン時代に悩みながら色々被写体を求め、休日は家に居た事はなかった。
何処でも撮影に行き当たりばったりと適当にカメラ片手に出かけて、日々悶々としていた時代だった。
どうすればプロになれるのか? 全く分かっていない、大阪に来て4年目の事だった(1968年頃 ・ 撮影)。


025 (27)    祈り
この作品は自分ながら大好きで色々なコンテストに出品したが全くお呼びが無く悩んでいた。
京都や奈良の神社仏閣は初期2〜3年は良く行ったのだけ記憶している。
時々、先輩の西嶋保介氏に琵琶湖を案内してもらったのが気に入り
多分、自然に接して自分には琵琶湖が合う様な気がしたので1969年頃、琵琶湖をテーマにしようと決心した。
ただし1964年に3回 ・ 1965年8回 ・ 1966年13回 ・ 1967年18回、琵琶湖を大好きになりました(1968年頃 ・ 撮影)。


025 (28)    酒造り A 大阪能勢 Osaka Nose
或る日、先輩の西嶋保介氏(大阪光芸クラブ ・ 青木君夫先生の白百合会 ・ 中森三弥氏のサンフォトクラブ)所属の先輩が
能勢の酒造りの里の撮影許可が出たので行かないかと声がかかったので直ぐOKした。
フイルムを整理するとモノクロ(白黒)約30本、カラースライド(アナログ)が20本出て来た。
モノクロは50年近くなるのでそろそろ限界、カラーも少し退色が目立つ・・・
会話で皆さんに酒造りの話をしていたので知って頂くためにギャラリーに入れました(1973年頃 ・ 撮影)。


025 (29)    酒造り B 大阪能勢 Osaka Nose
お話ししていると殆どの方が東北地方から出稼ぎに来られていた、家族を故郷に残し一生懸命働く姿に感動した。
私は既に結婚していたので考えられない事だった。
写真は酒造りのドキュメンタリーとして順に撮影し私自身気に入っているが・・・発表する場を無くしお蔵入りした作品だ。
せめて私のネットのギャラリーに入れ様と思った(1973年頃 ・ 撮影)。


025 (30)    酒造り C 大阪能勢 Osaka Nose
私は土門さんの影響が残るフォトアート誌(研光社)はカメラ雑誌の中で一番憧れていた。 松本徳彦氏 ・ 細江英公氏 ・ 伊藤知己等、
一流の審査員に私はチャレンジした。 月例は年度賞の年間一位になるのが夢でした。 当時1960年代、1970年代の年度賞作家がプロに転向していたので、
私はそれに近づきたいと思っていたのです。 単純だったかも・・・? (1973年頃 ・ 撮影)。


025 (31)    酒造り D 大阪能勢 Osaka Nose
作品の酒造りの外観は撮影しているが案内してと言われても今では全く分らない。
私は生徒さんに撮影した場所と食べた所は忘れないと豪語しているが? この作品は能勢と云うだけで全く分らない。
写真界では東松照明 ・ 佐藤明 ・ 川田喜久治 ・ 奈良原一高 ・ 浅井慎平氏らが大活躍していた時代です (1973年頃 ・ 撮影)。


025 (32)    酒造り E 大阪能勢 Osaka Nose
関西では棚橋紫水氏 ・ 岩宮武二氏 ・ 入江泰吉氏 ・ 堀内初太郎氏等が当時、関西の大スターだった。 私は1974年〜1977年迄ミノルタロッコールクラブに
在籍していた。 その時の関西でのゲスト写真家だった、東京から中村正也氏 ・ 林忠彦氏 ・ 大竹省二氏 ・ 鳥取の植田正治氏 ・ 岡山の緑川洋一氏と超大スターがゲストで
ミノルタロッコールクラブも大盛況でした。 ミノルタでは川上緑桜氏 ・ 有野永霧氏 ・ 高橋弘氏、他 京都から林忠廣氏が参加していた(1973年頃 ・ 撮影)。


025 (33)    酒造り F 大阪能勢 Osaka Nose
私は1973年、秀影クラブに再入会した、
更に高みを目指して浪華写真倶楽部 ・ 光芸クラブ ・ 地懐社と大阪3大クラブを検討したが、考え抜いた末、蟲に入会した。
写団蟲は山城英明氏 ・ 大村マサル氏がニコンの大撮影会、伊賀上野城に出向いた折に声をかけられた。
私は既に月例フォトコンテストで活躍してたまに写真入りでカメラ誌に載っていたからだと思う?(1973年頃 ・ 撮影)。


025 (34)    酒造り H 大阪能勢 Osaka Nose
写真学校在学中、秋田哲周先生は良く奈良に案内して頂いた。
東大寺 ・ 唐招提寺 ・ 薬師寺等、当時は三脚も自由に使用出来、入場料も無く、仏像も自由に撮影出来た。
勿論、京都も同じ入場料を払った記憶は全くない。
秋田先生の話では当時、東大寺管長だった佐保山尭海氏(写真家としても有名だった)、
東大寺では屋根からのアングルを撮らせてくれないとボヤかれていたのが印象的だった(1973年頃 ・撮影)。


025 (35)    ある日の野上電鉄 A 和歌山県 Wakayama Prefecture
野上電鉄、海南市日方駅から紀美町の登山口駅までのローカル線だった。
利用客は通学生と工場の従業員が中心に1時間に2本程らしいが1994年に廃止となった。
私の野上線の撮影は1964年〜1994年まで続いた。
廃線になる1994年以後は春と秋の、有田川円田のあらぎ島に行く時の年2〜3回だった。
写真を見ての通り私が撮影したアマチュア時代の野上線は満員の日もあり
常に、駅では人々の往来も多くスナップには不自由なく、撮影だけで駅の構内が自由に撮影出来た。
私の大好きなローカル線でした、野上線だけでコンテストは17点も入選した。
忘れられない野上電鉄です(1974年頃 ・ 撮影)。


025 (36)    ある日の野上電鉄 B 和歌山県 Wakayama Prefecture
駅に向かってテクテク歩くサラリーマンを見かけた、この様なシーンは何度も出会いドキュメンタリーとして色々な角度から撮影した。
週刊現代 ・ 文春 ・ 新潮と週刊誌もブームでグラビアには現在のJPS会長の熊切圭介氏 ・ 木村恵一氏 ・ 野上透氏等、
当時私は週刊誌を全部買って撮影方法を読者として参考にしていた(1973年頃 ・ 撮影)。


025 (37)    ある日の野上電鉄 C 和歌山県 Wakayama Prefecture
野上線の紀伊坂井駅です、その頃は駅員も見かけましたが数年後は駅員も見かけなくなりました。
タバコを一服しながら次の電車を待っている、まさにローカル線です。
駅も木造で改札口も木でした。
現在は駅舎も残っていないが僅か線路の跡地が残っている(1973年頃 ・ 撮影)。


025 (38)    雨の野上電鉄 和歌山県 Wakayama Prefecture
私の場合、和歌山有田のあらぎ島の円田と生石高原周辺の棚田を良く歩き力をいれていました。
時々、黒沢牧場にも立ち寄りました、その間に野上電鉄があるので必ず立ち寄り、
よくも悪しくも野上線の重根 ・ 坂井 ・ 野上中と3〜4ヶ所の駅に立ち寄ってシャッターを押していました。
当日は雨で人も少なく線路の畔に花が咲き霧に煙る線路を撮影。
当時5月と6月に一度、野上から清水町の円田へ・・・ 琵琶湖がまた違った表情で迎えてくれる。
アマチュア時代はコンテストが主なので・・・浮気心も多い(1972年頃 ・ 撮影)。


025 (39)    ある日の野上電鉄 D 和歌山県 Wakayama Prefecture
ホームに電車が丁度入って来た、女学生が1人乗っていた。
広告にファッションプロムナード柳屋の宮之道と甲子園球場の巨人 ・ 阪神戦の広告が出ていた。
6月22日に野上電鉄からバスで見学に行くと書いてあった、
私もその頃、田植えのシーズンと棚田に水が入り光る棚田を予定していた。
現在2018年5月にあらぎ島を訪れている、次の予定は秋の9月です(1971年頃 ・ 撮影)。


025 (40)    ある日の野上電鉄 E 和歌山県 Wakayama Prefecture
女学生がポツンと1人で電車待ちしている。
駅の広告は野上厚生総合病院 、マエダ薬局が眼に付く、構内に駅員は見なかった。
車が普及して来たため年々お客さんが少なくなって行くのを感じた。
  国では田中角栄総理大臣が問題になって来ていた。
一方私は休日の殆んどを琵琶湖で撮影、
時々和歌山の棚田 ・ 丹後 ・ 亀岡と4〜5回に一度色々な変化して琵琶湖が8〜9割、その他を1割とした。
コンテストは月例が主ですがサンレンズ ・ コムラー等
レンズのメーカーコンテスト、三菱月光フォトコンテスト ・ コニカフイルムの小西六等に応募し多数入選していた。
まさしくアマチュアを謳歌していた時だった。
また年間20回以上入選していた(1974年頃 ・ 撮影)。


025 (41)    通勤客 和歌山県 Wakayama Prefecture
駅名、紀伊坂井 ジャスコ海南の広告、女性が乗り込むシーンです。 スタイル見るとバッグや靴もモダン、世の中段々良くなっている感じです。
通勤客ですので朝7時半か8時頃、私は5時に家を出ていたと思う。
当時は朝、夜関係なく好きな時間に好きな写真に一目散、プロカメラマンを目指し目標も持って突き進んでいた(1974年頃 ・ 撮影)。


025 (42)    ローカル線 和歌山県 Wakayama Prefecture
作品はフォトアート誌(研光社)での入選作品です、審査員は写真界の巨匠 細江英公先生、2018年文化功労章を受賞され写真界では誰でも知っている超有名人です。 先生の選評、ローカル線のホームを 向かい側から撮ってホームにいる人を羅列的に撮っている人が多いのですが、この写真は自分の出勤途中でふと横を見ると自分と同じような人が傘を持って何か考えている様子で上を見つめているという、 同情をもってみているという感じがします。 ハレーションみたいにみえる所から写真が暗示的にも見えます。 その為に写っている男の表情がぼやけて見え、それが暗示的ではあっても甘くしており、きびしさがない これがシャープだともっとリアリティが感じられたと思います。 非常にするどい所を捉えていても上位へ行かなかったというのは顔のハレーションの問題です。 ローカル駅の通勤者の写真を通して、現代日本の住宅事情や 通勤事情を考えさせる物語性の強い写真です。 いずれにしてもフォトアートの入選作品は内容のある物語をふんだんにもっている写真がどんどん入選していると思います(1975年フォトアート3月号)。 ※フォトアート誌より


025 (43)    光る線路 和歌山県 Wakayama Prefecture
線路を若い女性が歩いて出勤している、都会では考えられない、まさしくローカル線です、人生一路、奥行きを考えました。 野上電鉄の畔を毎年通過する度に30〜40年の私の写真人生がよみがえって来ます。 フォトアート誌で1977年に年度賞1位になって第18期の招待作家になりました。
しかし年度賞の賞状を受取り、フォトアート誌は28年間の歴史を持って倒産した。 賞状は受け取りましたがメーカー賞のゼンザブロニカのカメラは事情で貰えなかった、
残念だったが憧れのカメラ誌の年度賞を受賞しただけでも私の写真人生に大きな1ページになりました(1974年頃 ・ 撮影)。


025 (44)    愛犬と 和歌山県 Wakayama Prefecture
野上線では私の中ではカラー作品の方が8割以上と多いですが、今回はモノクロ中心に編集しました。
フォトアート誌では松本徳彦先生の審査で1等を受賞した事と伊藤知己先生の1977年の年度賞が忘れられない。
ローカル線でも数多く発表し野上電鉄のローカル線は私の中でも特に忘れられない物語になります(1974年頃 ・ 撮影)。


025 (45)    失われた棚田 A 和歌山県 Wakayama Prefecture
私のギャラリーの中、棚田シリーズでも同様の作品が数多くあります。
近年棚田が放置され、今では荒れ放題になっています、
地主の方の年齢が高くなり、その家族や長男の方たちが町に出て、サラリーマン生活をすると
労働力も無くなり手伝いするにも機械と段々畑の山道とか、色々な問題が考えられる。
私達の知り得ない問題が数多くあると思っています(1968年頃 ・ 撮影)。


025 (46)    失われた棚田 B 和歌山県 Wakayama Prefecture
写真クラブ秀影でカラーの部は1977年まで私が殆んどトップだったと思っている。
モノクロでは西嶋保介先輩 ・ 森本義次氏 ・ 西川和也氏 ・ 櫛田理雄氏が思い出に残っている。
私が退会する頃はヤマザキタケオ氏 ・ 三宅信男氏の2人を私が紹介した。
私の地元の方です、恐らくその後2人は活躍したと思っている。
三宅信男氏は現在でも日本カメラ ・ 月刊フォトコンテストの月例でも良い作品を発表されています(1968年頃 ・ 撮影)。


025 (47)    あらぎ島 和歌山県 Wakayama Prefecture
有田川町清水のあらぎ島、珍しい地形の円田です。
当初からこの円田が気に入り私のアマチュア時代、入選を数多く発表しました。
現在も年2〜4回訪れています。
地元の農家でお茶を作っておられる、きとら農園さんと知合い、時々モデルにもなって頂き感謝します。
2018年二科展に辻博明さんがシャボン玉と犬のファミリーが入選されました。
有難うございます(1964年頃 ・ 撮影)。
※ きとら農園の桑の葉茶は無農薬で天然の茶を製法され、糖尿病とダイエット及び便秘に良いとの事、私も行くたびに買って帰ります。 TEL 0737−22−7074


025 (48)    能登 石川県 Ishikawa Prefecture Noto
先輩の西嶋保介氏とは1964年から1978年2月まで行動を共にしていた。
月に一度または2ケ月に一度の割で? 休みが多い正月、お盆の休日は遠出、多かったのが能登でした。
琵琶湖から越前 ・ 能登、知らぬ間に私も大好きになった。
日本カメラで金賞、フォトアートでは1等を2回ほど頂きました、能登だけでも18点余り入選した。
琵琶湖から能登のルートは関西の写真家のルートでもあります(1972年頃 ・ 撮影)。


025 (49)    雨日 石川県輪島市 Ishikawa Prefecture Wajima
能登の撮影に行くと必ず輪島の千枚田に立ち寄った。
当日は雨だったが雨の中でもお土産を販売していた。
私は撮影するためには必ずお礼替わりにお土産を無理に買っていた。
それは現在でも変わらず マナーだと思っている。
アマチュアの方の中にはマナーも悪く何も買わずに撮影するカメラマンが多い。
それに出合った土産物屋の主はカメラマンに愛想が悪い。
嫌がる方は必ずその前に同様の経験をされているのです?
気持ちよく撮影するのに相手を思いやる気持ちで買って下さい(1973年頃 ・ 撮影)。


025 (50)    冬の舟屋 石川県能登 Ishikawa Prefecture Noto
1975年、小西六写真工業が大々的にコンテストを募集していた。
その年の正月、能登作品を応募、この作品が団体の部で銀賞になった。
コニカよりカメラを頂いた、更に個人の部でも優秀賞になった。
審査員はあの作家、太宰治ら作家を数多く撮影した人物写真の巨匠、林忠彦先生だった。
ミノルタロッコールクラブで私は大活躍したのを知った林先生から大阪に来た時、車の運転してくれないか?と訊ねられた。
然し私はまだサラリーマンの時代、日曜日だけが休日の頃、先生は土曜日と日曜日と語っていた。
残念ながら無理だったのでお断りした。
1981年JPS展で金賞を受賞、東京で先生と出会った。
この作品を見るたび林先生を思い出す、林先生とは相性が良く審査で良く入選させて頂いた。
1981年JPS展の審査員だった、関西からは枚方の長老、田中幸太朗先生でした(1975年 ・ 撮影)。

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