アマチュア時代 2



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025 (51)    初めての京都 京都 Kyoto
大阪の写真学校に入学、プロカメラマンに憧れて故郷長崎から大阪に来た、
田舎では東京にしようか? と迷った末、先輩の竹中正和氏の助言から大阪を選んだ。
大阪に来て何も解らぬまま、とりあえず京都 ・ 奈良の神社ばかり2年間通った。
その間、アルバイト先の先輩から西嶋保介氏を紹介して頂き、
1ケ月に一度または2ケ月に一度、琵琶湖 ・ 亀岡 ・ 和歌山 ・ 丹波を案内して貰った。
大阪に来てモノクロが中心でしたがアナログカラースライドのカラーフイルムがボチボチ・・・僅か販売されていて、
その貴重なカラーフイルム(R)を使用した作品です(1965年撮影)。


025 (52)    売店 京都 Kyoto
作品は多分、京都のお茶屋さんだったと思う? 何処の場所か覚えていない。
写真学校では白黒フイルムの勉強が主でした。
カラーフイルムはネガフイルムが大阪万博より普及したと思っている。
カラースライドRは、その当時、殆んど使用されて無く、
広告主体パンフレットを使用するカメラマンAPA(日本広告写真協会)が主に使用していたと思う?
一般のアマチュアはスライドのRフイルムを使用する人は殆んど見かけなかった。
カラーを使用した東京オリンピックの早崎治氏のポスターは超有名と話題だった(1964年 ・ 撮影)。


025 (53)    山頂 河内長野市 Osaka Prefecture Kawachinagano
私は大阪に来て三和カラーでアルバイトをしたが、柏原市の先輩から大井スタジオを紹介され「大井繁三氏」の元で1年間勉強した。
大井スタジオには2人の息子さんがいて後に2人とも大活躍をした時期がありました。
通孝君はまだ中学生、健二君は小学生でした。
大井スタジオの写真クラブ、マスカットは柏原市では有名でした。
お客さんの山下春男氏 ・ マスカットクラブの大橋力氏 ・ 下村いさお氏他、凄いメンバーが揃っていました。
私はマスカットとは関係なく大阪の写真学校と青木先生の大阪キャビネクラブ(白百合会)の方に夢中でした(1965年阿撮影)。


025 (54)    黒ネコ 柏原市 Osaka Prefecture Kashiwara
柏原市の大井スタジオに山下春男氏がお客として来ていた。 山下氏はテーマが猫でした、二科展に応募されていて
地元では市会議員と名士だった。 山下さんの猫の作品を見て私は猫がいたら必ず撮影するし、
また青木先生は良く犬を題材にされて世間では青木君夫先生の事を犬の青木と呼ばれていた(1965年 ・ 撮影)。


025 (55)    野良犬 大阪市 Osaka City
青木先生のクラブでは先輩の西嶋保介氏 ・ 滝口繁雄氏と上手な人が数人いましたが、あくまで白黒作品オンリー。
私はカラースライドの作品を多く撮影していた。
小西六写真工業が募集した、春を写そうコンテストでブルーリボン賞(最高賞)受賞、大阪に来て2年目の事だった。
作品は中之島で早朝サッカー少年の練習がテーマになりました。
大井スタジオ社長からも褒められました。
更に青木先生のクラブ(白百合会)でも2年目で年度賞を受け、自信が段々でて、ますます写真に夢中になりました。
作品の犬は大阪の有名人だった日本の写真の歴史上の中山岩太氏の野犬に少しでも近づきたいと言う思いでした(1965年 ・ 撮影)。


025 (56)    ひととき 大阪市 Osaka City
大阪、青木先生の作風は主に大阪市内が中心、時々琵琶湖の作品も見ました。
フォトアート誌では大学院の部で大活躍され、私は常に憧れていました。
何時の日かカメラ誌に自分の作品が掲載される事を夢見ていた時代です・・・
丁度その頃、青木先生の二科展の名作、雨ドレスが発表された時代だったかも?(1965年頃 ・ 撮影)。


025 (57)    中之島暮色 大阪市 Osaka City
中之島の夕暮れを撮影、高いビルは殆ど有りません。
月刊フォトコンテストが手元に1部残っています、昭和43年(1968年)発行、現在のフォトコンの前身。
編集人は伊藤義一氏、発行人は評論家の吉村伸哉氏、発行元は写真評論社です。
私はカメラ雑誌は全部買っていました。
当時は5社有りました、数年置きに全部処分しています、本はかなり重たく場所も取るので、
ただし好きな記事と自分の作品掲載分は残したり切り取ったりして残しています(1970年 ・ 撮影)。


025 (58)    大都市大阪 大阪市 Osaka City 
高速道路を助手席から撮影、
先程のフォトコンテスト1968年12月号を見るとニッコールコンテストで田中長徳さんが特選、彼はプロになり現在も活躍されています。
同じく特選に渡里彰造氏 ・ 滝忠司氏 ・ 浦口楠一氏 ・ 村上周男氏 ・ 川本貢功氏 ・ 八木祥光氏 ・ 小山保氏 ・ 春田佳章氏、
第11回太陽賞、大阪で大先輩の吉田一夫氏がそれぞれ上位入賞している。
既にプロで活躍されたり また天国に召されたり 大作家の人達が掲載されている(1970年 ・ 撮影)。


025 (59)    オラウータン A Osaka Hirakatashi
私の隣町が枚方市、ひらパーで有名、俳優の岡田准一のCMでも!! そのひらパー、枚方公園を略した名前です。
1970年代ミニ動物園としてオラウータンが飼育されていた。 私としたら滅多にないが? 子供を連れて3〜4回訪れた。
子供を勝手に遊ばせて私はオラウータンに夢中になっていた、最初は白黒でしたがカラーで後に撮影した(1971年 ・ 撮影)。


025 (60)    オラウータン B Osaka Hirakatashi
ひらパーのオラウータンは中々の役者で表情も良くポーズを色々作ってくれる。
写真冥利に尽きるオラウータンでした。
カメラはニコン、レンズはレフレックスの500ミリ、絞りは固定の8です。
軽いので手持ちで撮影出来る、俗にミラーレンズとも云われ私は主に白鷺撮影に琵琶湖で常用していた。
白鷺撮影のために買ったのですが他でも使用した(1971年 ・ 撮影)。


025 (61)    オラウータン C Osaka Hirakatashi
ニコンレフレックス500ミリは過去3台使用、
それは使い方が荒くカメラ ・ レンズ共、使い終わったらその辺に何処へでも置き、土の上、セメントの上と全く構わない使い方です。
おまけに掃除もしなくて汚れたまま・・・本当に我ながら始末の悪いメチャクチャなカメラマンでした。
レンズに擦り傷が入り、レンズ回りのメッキが剥がれ生徒さんに安く処分したので3台になりました。
1976年二科展にカラーで応募し入選しました。
1980年まで連続5回入選しましたが、1981年落選後は出品していません。
その後JPS日本写真家協会に力を注いでいます(1971年撮影)。


025 (62)    オラウータン D Osaka Hirakatashi
ひらパーに子供を連れて行きました。
私の所から2駅目です、秋の菊人形では大盛況でした(現在は中止されています)。
子供を遊ばせて、私はオラウータンに夢中でした。
白黒フイルムが10本、リバーサルが5〜6本出てきました。
今回は白黒で発表します(1971年 ・ 撮影)。


025 (63)    化野念仏寺 A 京都市 Kyoto City 
嵯峨野にある浄土宗の寺、平安時代の墓地らしい。当時は入園料も無く、監視人もいなくて自由に撮影出来ました。京の寺も奈良の寺も同じ様に拝観料は全部無料の時代です。大阪に来て何も分からぬまま寺回り、一応シャッターは切り、写真はそこそこ見れる? 下手だと思わない? そこが落とし穴、寺はある意味石仏もある作者の物、建物も一流、宮大工の作、私達はただカメラで勝手に複写しているだけ!! 気持ちも表現も無く適当にシャッターを押していただけ・・・当時は分っていなかった(1969年 ・ 撮影)。


025 (64)    化野念仏寺 B 京都市 Kyoto City 
月刊コンテストに応募しても予選通過も無く、中之島の早朝少年サッカーでブルーリボン賞になり、豊山と豊登の作品が予選通過。
大阪城の夜景と工事場が雑誌に載ったけど入選でなく、もう一息として写真が掲載されただけ。
その後、京都岩田山の猿 ・ 神戸北野町の洋館の家 ・外国の子 ・ 清水町円田 ・ 琵琶湖の自然、
それはカメラ誌から呼び込まれて入選の数々・・・これが私の歴史。
その後、入選作品は切り取ってアルバムにしています。
アマチュア生活14年で約150点入選、その中でモノクロは40点近く入選しています(1969年 ・ 撮影)。


025 (65)    室の里 奈良県 Nara Prefecture
写真界の巨匠、土門拳さん1909〜1990年、昭和の時代を代表する写真家、
1939年に土門さんは室生寺を撮影した。
1954年に写真集室生寺が美術出版社から刊行、1963年、古寺巡礼第一集刊行される。
1963年、太陽創刊の平凡社で日本のあけぼのを手掛ける。
私は既にその頃、土門さんを知っていた。
私は15才位からカメラ誌を少々読み、日本を代表する写真家として・・・
恐らく写真を目指した方なら当然だろうと思っている。
大阪に来て私はまず土門さんの世界、奈良 ・ 多武峰 ・ 談山神社 ・ 十三重の塔 と室生寺に1人で行って見ました。
土門さんの世界とはとんでもない遠い世界、
私の見せられる作品もなく、ようやく里の夕暮れがマアマアの作品になりました(1965年 撮影)。


025 (66)    托鉢 滋賀県 Shiga Prefecture
西嶋保介氏と一緒だった、
魚眼レンズで自動車内から撮影、
私はこの作品は自分なりに褒めています。
色が青いのはアナログタングステンタイプで撮影、
現在デジタルなら簡単に色が替えれますが、
当時は撮影時に考えなくては無理でした。
琵琶湖の北、木之本あたりだった各家庭に寄ってお布施を受けていた(1973年頃 ・ 撮影)。 


025 (67)    冬の風物 滋賀県長浜市 Shiga Prefecture Nagahamashi
冬の風物、漬物用の大根干しです、
湖の周辺で良く見られましたが? 現在は彦根で一部見れるだけとなりました。
1974年、写真クラブ蟲に入会、そこで知り合った現在、奈良の鹿で有名な写真家、中村明己氏JPS会員と2人で琵琶湖に・・・
写真を見ると大根干しの季節ですので11月末から12月初旬だろうと思います。
その時に私の太陽賞の名作、浮雲を撮影した思い出(1975年 ・ 撮影)。


025 (68)    夏の夕暮れ 滋賀県長浜市 Shiga Prefecture Nagahamashi
私の作品の中アマチュア時代の作ですが今でも充分通用する作品です。
1978年の太陽賞では伊奈信男先生が、ひまわりを見て太陽賞に決定したと記事に書いている。
私も相当努力して撮影した。
スライド36EXが8本、240枚撮影している、
1本のひまわりを角度 ・ 露出 ・ ストロボ ・ 色を色々変えて撮影、自信作です。
1976年11月号フォトアート、審査員の伊藤知己氏は土門拳差の甥、ひまわりの作品、終夏は3等でした。
良い作品は結果も良いのです(1974年 ・ 撮影)。


025 (69)    たそがれ 滋賀県 Shiga Prefecture
当時、滋賀県の中で一番湖北が好きでした、特に南浜のポプラの樹は湖畔の中にあって味のある風景でした。
夕陽が終って車のライトを照らしました、アクセントのつもり色は私の得意のブルートーンです。
2018年現在ポプラの樹は有りません、自然も変化していく(1973年 ・ 撮影)。


025 (70)    消えた村 A 滋賀県 Shiga Prefecture
湖北の奥、余呉湖から福井県の境近くの鷲見地区、2015年に行って見たら消えていました。
ダムの計画で住民は移住したと聞きました、でもダムは2014年中止に決まりました。
時代劇に出て来る様な茅葺屋根の集落で私は大好きでした、残念です(1976年 ・ 撮影)。


025 (71)    消えた村 B 滋賀県 Shiga Prefecture
4ケ所集落がありました。
ダムの計画は当時の滋賀県嘉田知事に寄って勿体ないの持論で見直しされた後、中止になった。
高時川の上流でした、丹生ダムとも聞いた?
琵琶湖総合開発事業とも関連があるかも?
私がこの場所に行くきっかけは大島渚監督の愛の亡霊の映画ロケからです(1976年 ・ 撮影)。


025 (72)    消えた村 C 滋賀県 Shiga Prefecture
廃校です、数年後に行って見たら跡形も無くなっていた、
現在は全く何処にあるのか不明です?
54年も琵琶湖に行くと少しづづですが・・・変化していく(1977年 ・ 撮影)。


025 (73)    廃校 滋賀県 Shiga Prefecture
琵琶湖周辺とくに山奥では段々人々が少なくなり、子供の数が少なくなって廃校が相次いでいる。
当日ストロボ光を使っての雪景色です、この廃校も数年後消えました。
跡地は今では分らない。
自分の人生と同じ様に消えて行くのでしょうか?
悲しい現実(1975年 ・ 撮影)。


025 (74)    北野町の館 A 兵庫県 神戸市 Hyogo Prefecture Kobe
1972年から1973年あたり神戸北野町の異人街を時々通った。
写真家、細江英公さんの作品の中で外人の少女の名作があり、
私もそれにあやかりたいと思い外人さんの多い神戸北野町に良く行った。
可愛い少女で良く入選、この館もフォトアートで入選した。
1973年から1978年2月太陽賞を頂く迄は凄かった、
4〜5年の間に100点以上入選、アマチュアとしては最高だった。
カメラ誌では1978年まで常に何処かに載っていた(1975年 ・ 撮影)。


025 (75)    北野町の館 B 兵庫県 神戸市 Hyogo Prefecture Kobe
神戸北野町、異人館で有名、
それにともない街もモダンで何となく外国に来ている気分です。
レストランも大阪の街に無い建物や店内も当時はかなり進んでいた、
今見ると決して良いとは思わないが?(1975年 ・ 撮影)。


025 (76)    マネキン 京都府亀岡市 Kyoto Prefecture Kameoka
マネキンは被写体として面白いと思った。
京都亀岡にマネキン工場があり、古くなったマネキンを畑の横に置き動物除けに使っていた。
私はマネキンを見て撮影の時間帯を考えれば良い作品になるのではと思って、早朝、暗い内に家を出て多分3〜4時だったと思う。
ストロボを使用した、然し本当に怖かった。
今では1人でも撮影に行きたくないと思う! 当時はヤル気満々で写真に情熱を持っていた(1975年 ・ 撮影)。


025 (77)    テクニック 京都府亀岡市 Kyoto Prefecture Kameoka
フォトアートでも入選したが審査員の伊藤知己先生からも注意を受けた。
選評でマヌカンを使ったりして中々凝った手法で苦労もしているようで、うまい作品だと思う。
技巧派として昨年神達君が卒業してしまったので今年はマツシマ君が独断場になるのではないかと思うが、
神達君にも注意したが、余り技巧化するとある種の臭みが出てきてしまう。
現実感を失わないようセーブしながら作画することが、マツシマ君にとって今後の課題だと思う。伊藤先生の評。
神達さんとは岡山の神達勝之氏、二科会会員として活躍されています(1975年 ・ 撮影)。


025 (78)    光の軌 京都府宮津市上世屋 Kyoto Prefecture Miyadu Kamiseya
私の好きな丹後上世屋です。
丹後の舟屋、新井の千枚田は西嶋保介氏に案内して頂いたが、
上世屋と木子は山城英明氏、大正区で喫茶店「へちま亭」を営業されて、地元では人気の喫茶店でした。
1978年2月、写真クラブ蟲を退会しても山城氏との交流は続き、私の琵琶湖私景の出版パーティにも来て頂いた。
私はラジオ大阪カルチャーサロン(1997〜2016年)の講師をしました。
カルチャーサロンに近い為に良くコーヒーを飲みに行きました(1974年 ・ 撮影)。


025 (79)    上世屋 京都府宮津市上世屋 Kyoto Prefecture Miyadu Kamiseya
丹後の上世屋は40年以上になります。
多くのアマチュアカメラマンの方を案内しました。
私はアマチュア時代からの経験上皆さんを案内、現地を良く知っていますので、
また行く方法から全部知り尽くしているのです。
人物をシルエットで配しました。
上世屋だけでアマチュア時代、私も6点入選しています。
入選経験がある所はやはり教えがいがあり自信にもつながっています(1974年 ・ 撮影)。


025 (80)    過去の桟橋 京都府 Kyoto Prefecture
今はなき丹後の観光船の港です、
この頃は舞鶴あたりから渡船があったのではないでしょうか!!
事実は知りません。
当時は高速道路も無く日帰りは無理で、一泊の旅行でした(1973年 ・ 撮影)。


025 (81)    昼下がり 京都府 Kyoto Prefecture
舟屋の通りに蔵が幾つか有り昼下り、日陰でひとときに出合いスナップしました。
この蔵は現在も残っています、毎年2〜4回は丹後に行きます。
2017年、生徒さんで川村雅範さん ・ 川内陽さんの2人は二科展に入選されています。
近場で二科展入選はある意味儲けもの? 多くの強敵に立ち向うなら
あまり人の知らない被写体と珍しいのが入選率は高い・・・
とは云え、あくまで作品本位です(1967年 ・ 撮影)。


025 (82)    木子 京都府宮津市 Kyoto Prefecture Miyadu
詳しくは宮津市木子、北部 汐霧山624m、
山間地 冬は雪が多い、舞鶴が10センチだと木子は2mだとか?
丹後に私の友人、宇野伸一君がいる。
富士カラー中央現像所時代にお互い名前は知っていたが、
写真が好きと云う事で仲が良くなり、丹後に出かけたら彼の実家に時々立ち寄り顔を見る。
作品のモデルは山城英明氏、私は人と違う色を求めて赤外線フイルムを使用した(1975年 ・ 撮影)。


025 (83)    元気な子 (撮影場所不明)
秀影クラブ時代1972〜1977年、西嶋氏の紹介で4〜5年ほど参加していた。
指導者はいなくて皆でワイワイクラブだった。
私は西嶋氏を一番に思っていたので、常に彼の考え方を尊重し取り入れていた。
青木君夫先生を紹介したのも西嶋さん、全面的に信頼を寄せていた。
作品は子供達がふざけて自分から砂を付けて笑顔で接してくれた楽しい時間でした。
日本カメラ1975年、緑川洋一先生の月例に出品、8月号ではトップに躍り出た。
私は年度賞になると思っていたら残念ながら4位だった(1975年 ・ 撮影)。


025 (84)    御釜 A 宮城県 Miyagi Prefecture
蔵王に西嶋氏と出かけた、火口湖の畔を色々と撮影した。
青色は自分で選択し青くなるフイルム、タングステンタイプフジ64Tを使用した。
アマチュア時代毎回撮影に出かける度に3〜5本用意した。
他を見ると使っている方は殆どいなかったからです。
蔵王にはプロになってツアーとして2〜3度訪れましたが?
天候が悪く御釜まで行けませんでした(1976年 ・ 撮影)。


025 (85)    御釜 B 宮城県 Miyagi Prefecture
当日は早朝に行きましたが曇天で日の出にはなりませんでした。
それでも撮影に出かけたら悪くとも撮影しなければなりません。
カメラマンの宿命、どんな天候だろうと、それなりにチャレンジする事です。
良い日も有れば悪い日も、自然にはかなわない(1976年 ・ 撮影)。


025 (86)    下町 大阪市 Osaka City
車の形で当時の事が分ります。 月刊フォトコンテスト、秋山庄太郎先生の審査で入選しました、ただし車の無い分でした。 選評ではなかなか角度の良い若い2人のスナップ写真です、女の子のポーズも良く家並みが続く奥行きも効果的でした。 また街のグレーを背景にした男の子の黄色いセーター、右のポリバケツのブルーも良いと書かれている。 細かい所を見ながらキッチリ読んでいると思いました。入選だけでも嬉しいのですが、選考の考えも参考になります(1976年 ・ 撮影)。


025 (87)    タバコの男 大阪市 Osaka City
大阪港だった。
船員さんがポーズを作ってくれた、
船の背景で黒くなりタバコの煙がアクセントになり、
これは秋山先生なら?と先生の日頃の入選作を見ると黒い背景が良く入選していた。
選者の癖とか特徴を読むのもひとつのテクニック、
一応そんな事したらだめと良く言われますが?
私は必ず選者の考え方や癖を考えました、勉強にもなります。
過去の先生の作風を見る時、週刊誌の表現でも人物以外は黒でした。
口に出すか?出さないか?
私は心の奥で常に写真家の歴史や生き方まで研究していました(1974年 ・ 撮影)。


025 (88)    笑顔 大阪市 Osaka City
秋山先生の審査で特選になっています。
年度賞にはならなかったが・・・
1975年APA展(日本広告写真協会)の一般公募で入選しました。
表彰式で先生は私の名前を知っていました。
月例応募でも先生は作品を見ながら作者名を覚えるのです。
特に伊藤知己先生は私の事を注目されていました。
1978年ニコンサロン個展会場に来て下さった、
伊藤先生はマツシマ君を月例で年度賞にしたのを間違いなかったと声をかけて頂いた。
その言葉を聞いて今もなお嬉しく思っています(1974年 ・ 撮影)。


025 (89)    夕照 島根県隠岐の島 Shimane Prefecture Okinishima 
1970年、大阪万博の年にハッセルブラッド500CMが発売された、
1972年にブラックが発売されて私は直ぐ購入しました、値段は378,000円でした。
私は大阪万博で商売が大当たりして・・・ネガカラーが一般に普及しカラープリントが世に出ました。
奥さんが写真業、私はラボの技術者、給料は全部写真につぎ込み更に奥さんの営業利益まで使いました。
だからハッセルが買えたのです、大阪で持っている方は殆ど見かけませんでした。
私は早速ハッセルを持参して鳥取県の砂丘と島根の隠岐の島へ境港からの船旅です、
1人で3日間の旅でした。
残念ながら西ノ島、国賀海岸の夕陽撮影中に荒波を受けハッセルは塩水がかかりました、
後日、大損して処分しました。
隠岐の島とこの作品の夕陽を見ると思い出します、
ただしこの作品は35ミリで撮影(1972年 ・ 撮影)。


025 (90)    田舎道 石川県 Ishikawa Prefecture
能登は西嶋保介氏と行動を共にしています。
赤いマント姿のおばあちゃんに出合いスナップしました。 この頃は勝手にシャッター押していましたが?
今では人権問題になります。 相手から許可を頂きシャッターを押す時代に変わりました(1974年 ・ 撮影)。


025 (91)    輪島の朝市 石川県輪島市 Ishikawa Prefecture Wajima
輪島の朝市です、クロスフイルターをしました。
カメラ毎日でも入選し能登の撮影ツアーは大当たりの連続。
フォトコン ・ 日本カメラでは金賞、フォトアートでは1等にもなりました。
御覧の通り朝市がこの頃そんなに人も多く無く、のんびりしていました。
2018年1月1日、夫婦で旅行した時は大勢の人で賑わっていました。
ルートインホテルで宿泊、ホテルも綺麗で朝市に近くて便利でした(1923年 ・ 撮影)。


025 (92)    平福 兵庫県佐用町 Hyogo Prefecture Sayo-cho
近年、佐用町平福の土蔵と川屋敷は人気が出ています。
私が撮影に行った頃は1974年、写団蟲で行ったと思う?
白黒とカラーで撮影、今回は白黒をギャラリーに入れます。
篠田正浩監督の映画にもなり時代劇に合う風景と思います。
合計12回ツアーでも実施、アサヒカルチャーでも案内しました(1974年 ・ 撮影)。


025 (93)    ある日の平福 兵庫県佐用町 Hyogo Prefecture Sayo-cho
良くこんなアングルから撮れたと不思議な思いです、
2018年もタバコ畑の帰り寄りました。
このアングルは川の中になりますので・・・
38年の歳月ともなれば過去を全部覚えられません。
写団蟲は花畑義三氏がリーダー、例会は山城英明氏宅で開催、
多い時は月2回だった、クラブ部として活発だったと思う(1974年 ・ 撮影)。


025 (94)    親子 滋賀県比叡山 Shiga Prefecture Mount Hiei
月刊フォトコンテスト、月例カラーの部で推薦1等でした。
ただしこのショットの次の分です、露出もギリギリ色も良いと思います。
審査員は中村正也先生だったと思う?
本の表紙は捨て印刷のみ切り取っていますので・・・見開きだったのはサイズで分ります。
カメラのデータはミノルタSRT101、レンズはMCロッコール135ミリ ・ F5,6 ・ 1/60秒 ・ フジクロームとなっています、
6月号か7月号あたりでした。
比叡山では霧も良く多くのコンテストで入選しました。
富士コン銀賞、ヤシカでは最高賞と大当たりでした(1975年 ・ 撮影)。


025 (95)    不思議な風景 滋賀県近江舞子 Shiga Prefecture Omimaiko
TV映画のロケでした、必殺仕置き人だった。
藤田まことさん ・ 山崎努さん ・ 中村嘉葎雄さんと一流のスター。
私は黒沢映画で山崎努さんのニヒルな役柄からファンになっていました。
山崎さんに1m位まで近づきファンですとシャッター押して撮影させて頂きました。
ところが近江舞子の林の中だったので露出アンダーでほぼ失敗です、
作品はロケの休息と気球の合成が面白いと思ってこのギャラリーに入れています。
カイトバードと云うマリンスポーツです(1976年 ・ 撮影)。


025 (96)    湖畔 滋賀県大津市 Shiga Prefecture Otsu
湖畔の黄昏時でした、作品はアマチュア時代に数多く撮影していました。
1996年の夏頃、水の情報誌FRONT10月号に編集の山畑さんが来られ、
沢山の写真の中からこの作品の流れの中から選ばれ持参されました。
本が送られて来てビックリ、見開きで大きく印刷されていました。
良くお選びになったと感心しました、
軽くスナップした作品でしたが? 味のある本になっていました。
ありがとう山畑さん、水の情報誌として良い作品作りされていました(1978年 ・ 撮影)。


025 (97)    悲 大阪府泉南郡 みさき公園 Osaka Prefecture Sennan-gun Misaki Park
みさき公園の猿は有名だった、その中に少々変わったサルがいた。 私の初期はドキュメンタリーのリアリズムの社会派のカメラマンに憧れていた。 琵琶湖も赤潮で魚の死骸や湖畔のゴミを撮影していた。 地球上の出来事を大きく考えて、食の問題 ・ 環境の問題 ・ 水の問題 ・ 水俣のユージンスミスが頭にありました。 作品は青のタングステンを利用し冷たく悪いイメージを出そうと撮影した。 コンクールに出しても入選はなかった、或る日、奥さんが見て、貴方イメージの悪い作品は駄目よと言った、考えてみると私もこの様な写真は新聞社に任せて、より美しい被写体にと決心しました。 以後、シャッターは押すけど発表は出来る限り美しい写真へと変わって行きました、
ただしこれは自由です。 皆さんは自由に考えて下さい、アマチュア時代の事です(1974年 ・ 撮影)。


025 (98)    開発前 大阪市 Osaka City
みさき公園の猿と同様、社会派カメラマンに憧れも有りました。
開発進む大阪南港 ・ 大阪港周辺 ・ 泉北ニュータウンまで足を伸ばして撮影に行きました。
ビルの向こうに港大橋が見えます、時代は大きく変わりました。
作品は珍しい44年前の写真です(1974年頃 ・ 撮影)。


025 (99)    雨の大都会 東京銀座 Tokyo Ginza
東京銀座だったと思う!!
東京へはカメラ毎日年度賞の1975年 ・ 1978年の太陽賞 ・
1981年JPS金賞 ・ 1978年ニコン銀座で個展、
多分カメラ毎日だと思っている? デジタル時代だとデータが分るが?
昔は 日付もをキッチリ付けてない方が多い。
然し今から40年前後だろうと思うが変わりはない(1975年頃 ・ 撮影)。


025 (100)    娘誕生日 大阪府寝屋川市 Osaka Prefecture Neyagawa
アマチュア時代のラストに私の娘の写真を記念にいれました。
上の娘が7才の誕生日、下の娘が3才、姉妹2人です。
2人とも結婚して親の役目は一応何とか? 2人とも東京にいます。
冬 ・ 盆の休みはついつい関東方面へ・・・顔を見るだけです。
私は嫁と子供の為に何もしていない、自信をもって・・・
写真人生に全部つぎ込み、何ひとつ家族孝行してなかった。
今になって少し後悔しています、
子供の服の替りがフイルム代に変わり、外食代は私のガソリン代になり
嫁、娘達の分まで好き勝手に写真に使った勝手人間でした。
私の死ぬ前が怖いです、罰が当たりそうで!!
皆さんも写真狂いもほどほどに、半分は家庭にも眼を・・・
私の悪態を披露します(1976年 ・ 撮影)。

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