青の世界 1
※作品は左から右に並べて展示しておりますので、
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右にスライドさせてご覧ください。
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002 (1) 浮雲(siga) 1974年撮影
私の青の作品の中で代表作
1978年 太陽賞(平凡社)でもグラフ誌の扉になった。
又色々な所でも取り上げられて私の中でも二度と撮れないと思っている。
富士フォトコンテスト(77’)でもスライドの部で入選、太陽賞は発表作品も可だった。
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002 (2) 雨日(siga) 1973年撮影
雨の比叡山の頂上駐車場、当時私はアマチュア作家、クラブの先輩 西嶋保介氏と小西清さん3人だった。
富士フォトコンテスト76’シルバー賞(スライドの部)受賞、大阪本町の富士フイルム大阪本社で表彰式があって
東京より写真部長・石井彰一氏(プロ写真家で土門拳さんの弟子さんだった)。
石井さんはフイルムがコダックだったので富士使用だったらグランプリと聞き、主催メーカーのフイルムを使うことを知った。
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002 (3) 湖上のヨット(siga) 1970年撮影
ヨットが風に乗って美しく思えた。
アナログフイルムで当時タングステンタイプが発売されていた。日中使用するとブルーの色に。
主に舞台、TV局白色球のライトで使用するフイルムだった。
私は風景に応用、アマチュアで使用する人は当時は少なかった。
後日ポスターに採用された。
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002 (4) 2人の世界(siga) 1969年撮影
湖畔にカップルが・・・白い波、風が強かった。
83’粟津潔氏のポスターの周囲に採用された。
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002 (5) 下山(siga) 1975年撮影
伊吹山に登り帰路、何気なくスナップした作品だったが・・・
カメラ毎日(毎日新聞社)の12月号で1位になって年間最高賞になった。
東京の表彰式でニコンF2フォトミックブラックが賞品で氏名まで入れて頂いた。
岩合光昭氏の父が当時日本で1〜2を競う動物写真家がゲストで話させて頂き光栄。
毎日新聞で取り上げられてアマチュアとして最高の名誉だった。
この作品は日常ありのままが良かったと聞いた。
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002 (6) 孤独(siga) 1982年撮影
琵琶湖に行くと必ず白鷺に出会う 自然に鳥が好きになった。
夕暮れ時は白鷺が餌を待っている。
タングステンでも夕陽では赤く写る。シャッターはスロー 1/2・1/4・1/8
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002 (7) 冬の湖畔(siga) 1968年撮影
白鳥・鴨等の野鳥が休んでいたが、私を知って飛立った、
風が強い日は鳥たちが安全な所に集まっている。
中々この様な乱舞のチャンスは少ない。
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002 (8) 白い輝き(siga) 1972撮影
冬日、琵琶湖は当時良く荒れていた。
近年温暖化で雪日は少なくなり、雪も最近珍しくなって来た。
雪の「白」が印象的だ。
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002 (9) 雪の日(siga) 1972年撮影
琵琶湖に注ぐ小さな川の河口、川が琵琶湖に流れやすくしている。
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002 (10) 沖ノ島(siga) 1973年撮影
琵琶湖に浮かぶ島は3島、沖ノ島は住民がいて漁業の方も多い。
ふな寿司で有名。私も年に2〜3度訪れている。
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002 (11) 枯れススキ(siga) 1981年撮影
俳句古寺紀行(日本こころの旅3) 昭和63年8月1日発行青人社・「太陽」の発行人だった
馬場一郎氏が創った雑誌社、発売は学研だった。
松尾芭蕉300年生記念号を制作するのでぜひ琵琶湖の芭蕉を取材せよと云う知らせを受け、
作品のイメージが出た作品が採用され嬉しかった。
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002 (12) 乱舞(siga) 1968年撮影
西ノ湖のヨシが好きで夕暮れ時群れで鳥が飛立った。
フイルムは1600に増感した、当時「日本発色」ではこの様に増感する人は誰もいないと言っていた。
無理な注文を出すので嫌がられた。
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002 (13) 悩む琵琶湖A(siga) 1968年撮影
早朝の老漁師が・・・当時1960〜1980年代まで琵琶湖の水は汚れていた。
自然科学誌ワイルドライフ1984、3で琵琶湖の問題として私の作品を通じて
「悩む琵琶湖の特集」をして頂き大変嬉しかった、又注目された。
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002 (14) 悩む琵琶湖B 1976年撮影
ある日何時ものように琵琶湖を歩いていると・・・
TVが湖の中に捨てられていたのでびっくりしてシャッターを押した。
自転車とか冷蔵庫も見た、昔も今もモラルに欠けてる人が多いと思った。
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002 (15) 湖の幻想(siga) 1973年撮影
余呉湖に「はごろもの伝説」がある、私は何も分らぬまま・・・奥さんから長襦袢を借りて撮影に出かけた、
湖に浮かばせて魚眼レンズ16ミリで撮影。
当時APA(日本広告写真家協会)の会員のプロを目指していた、もちろんJPSも・・・
まずはAPA展に出品する事、テーマを決めた「私の愛の日記」私はすでに結婚していたが・・・
架空の物語を作り、愛に破れて彼女は死を選ぶと云うラブストーリーだった、プロを目標にするなら普通。
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002 (16) 四ツデ網漁(siga) 1972年撮影
姉川の春の風物詩として四ツデ網漁は盛んだった、
その後徐々に少なくなって、現在では僅かな数となっている。
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002 (17) 琵琶湖総合開発(siga) 1980年撮影
昭和48年(1973年)スタート・平成4年(1994年)20年の開発事業。
私が琵琶湖に熱中していた時代だった。
白髭神社が現在より10m手前にあった事を知る人は少ない、
又 当時私ほど琵琶湖に熱中する写真家も少なかったと思う。
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002 (18) 伊吹山と桑畑(siga) 1982年撮影
1978年撮影。当時良く見られた風景だった。
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002 (19) 早朝の漁(siga) 1973年撮影
知内浜(高島市) 早朝夫婦で魚の小分けを見た、
レンズに息を吹きかけライトの回りに虹が出るテクニックを数多くしていた。
現在も生徒さん達に教えている。
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002 (20) 残光(siga) 1971年撮影
琵琶湖は太平洋と日本海の接点になる為か秋から冬に良く残光が発生する、
雲間からの太陽の光がドラマチックである。
今でも数多く作品を残している。
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002 (21) 群の鵜(siga) 1992年撮影
湖北水鳥センターの前である、鵜のねぐらとなっていた糞で樹が枯れてきた?として伐採された、
2016年やっと樹は伸びて元に戻りつつある。
20年以上の歳月・・・竹生島も同じ・・・自然(元)に戻るのは大変!!
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002 (22) 竹生島にて(siga) 1974年撮影
竹生島へは森成雄氏が案内してくれた、
川上緑桜氏にお願いしたが断られた、理由は車の運転なくて・・・費用も入るからだった。
竹生島の渡航費用は15、000円(往復)必要、当時としたら大変でした。
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002 (23) 湖面に飛ぶ(siga) 1974年撮影
水面の色のブルーが良かった、白鷺の色も美しかった。
何千羽もいたが毎年数が少なくなってしまった、私達カメラマンが悪いのだ?
そしてマスコミも同じ鳥たちにとって迷惑だろう。
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002 (24) 雪の日の知内浜(siga) 1983年撮影
竹生島から追われた白鷺は琵琶湖周辺に散り私は探し歩き6ケ所にコロニーを作っていたのを観察した。
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002 (25) 雪に舞う(siga) 1983年撮影
冬場になると餌を求めて知内浜に集まってきた、
白鷺の作家 森成雄氏は1974年彼が日本カメラ年度賞2位から現在まで良き友人として付き合っている。
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002 (26) 青の中で(siga) 1984年撮影
素晴らしい野生世界「ワイルドライフ」1984年6月号で私は知内浜と竹生島を発表している。
太陽賞(当時写真界の芥川賞と言われていた)受賞で色々な雑誌社から原稿の依頼が来る様になった。
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002 (27) 3mからのストロボ(siga) 1983年撮影
新幹線のグリーン車の雑誌、L&Gでも2回採用された。
撮影日と採用日は別になっています。
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002 (28) 川の流れの中(siga) 1986年撮影
あえてスローシャッターで水の流れを表現、
撮影にあたって100枚シャッター切っても良い作品に当たるのは2〜3枚、
鳥が動くと失敗、近年デジタルだと便利になった。
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002 (29) 白鷺の楽園(siga) 1977年撮影
白鷺たちがこんなに集まる事は珍しい、餌が豊富な時間だと思う?
数多く琵琶湖に行くとチャンスは多い。
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002 (30) 能登川の水車(siga) 1992年撮影
新しい観光地が出来た、アナログフイルム時代多重撮影2回露光した。
近年デジタルカメラの普及で写真撮影者が多くなった。
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002 (31) 夢の世界(siga) 1972年撮影
私は当時現像所(ラボ)に勤めていた、写真の現像・プリントだった、裏方の世界
ラボでは勉強になった、合成とかデュープは毎日の仕事、プロより知識が豊富なのは当たり前。
写真に携わり52年になる(2016年現在) 毎日が写真なのです。
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002 (32) 巨大ストロボ(siga) 1983年撮影
職業上大型ストロボが必要だった、多人数(100人)が部屋の中で撮影、
ミニカムスーパーストロボ使用 ガイドNo180 屋外で使用した、島との距離50m。
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002 (33) 樹の枝にて(siga) 1970年撮影
万国博の年 私は7回見学に・・・
この年写真業は忙しく万国博以後写真ブーム到来、
この年度は琵琶湖への撮影は少なくなった。
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002 (34) 人工的作画(siga) 1973年撮影
ラボの給料は業界一だった。
私は奥さんに写真店を経営させ2足のワラジで写真に次ぎ込み、材料代も月30万に及ぶ事も多々、
今では考えない位、贅沢な月日だった・・・幸せ者!!
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002 (35) 車の窓を利用(siga) 1974年撮影
テクニックを考えていた、人に負けたくなかった。
その技は太陽賞でも評価されたが・・・
あの高名な篠山紀信氏からテクニックが先に来ていると不評を受けた事も・・・
テクニックで太陽賞を受けたのだと今でも思っている。
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002 (36) 鏡を利用(siga) 1975年撮影
西嶋保介氏から1965年教えてもらった。
鏡を利用するのは、その昔からあったかも知れない、
私は蓮の花やツインタワーでも利用し生徒さんに伝えている。
びわこ銀行に採用された。
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002 (37) 朝の暗い間(siga) 1973年撮影
今津の平池 当時は誰にも知られてなくカメラマンもほとんど来なかったが・・・
数年後私が中に長靴で入っていたら1人〜2人と・・・
関西では平池を発表したのは私が最初だと思っている。
(1990年京阪百貨店で話題に)
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002 (38) 花しょうぶ(siga) 1974年撮影
タングステンタイプは当時フジとコダックで5種類あり、使い方と光線により色々と変化した、
私はラボ出身だから色々と幅広く知識があった、一般の人より幅広く・・・
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002 (39) 霧の中(siga) 1973年撮影
比叡山の霧の日 雨になると比叡山に登ると霧に出会う、
これも二科会 青木君夫先生の影響だと思っている、
先生は霧が好きだった。
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002 (40) 朽木の森(siga) 1973年撮影
画家の東山魁夷氏の作品の中に沢山出てくる、私も画家の作品が好きだった。
モノトーンの世界 青一色
太陽賞の審査員でもあった。
他に作家、デザイナー等 一流の審査員で太陽賞は約33年続いた、
その間7,000人以上の応募があったと聞く。
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002 (41) 青の世界(siga) 1973年撮影
太陽賞作品30枚の組写真、その中に青の作品を25枚ほど、
審査員がブルートーンにびっくりしたとパーティで中島健蔵先生(作家)より聞いた。
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002 (42) 青の虹(siga) 1971年撮影
太陽賞へは69’〜77’ 8年間の作品より過去の入選作品合わせて応募、
私は力作ばかりを集めた。
人生の勝負に賭けた、この機会を逃すとプロへは無理だと思った。
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002 (43) 湖上スキー(siga) 1973年撮影
モノトーンと云う言葉はその後の事、
私はカラー時代すでにモノトーンのカラー化を考えていた。
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002 (44) 流し撮り(siga) 1972年撮影
流し撮りは写真の効果で一番だと今でも思っている、
動きが表現上他に類がないと・・・
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002 (45) 沖ノ島とヨット(siga) 1969年撮影
青い世界の中 白いヨットの帆が印象的だった。
1981年JPS金賞で三木淳会長(土門さんの弟子)からブルーのマツシマと呼ばれ、
土門さんの弟子の西川猛さんからも青の男と呼ばれ私は今でも光栄に思っている、
印象とは その様なもの・・・
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002 (46) 竹生島と白鳥(siga) 1969年撮影
湖北 尾上では道路が完成したのは1987年頃 それまでは田園の道で湖に行った。
そのころ白鳥も珍しい、100羽以内だった。
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002 (47) 清水町円田(wakayama) 1978年撮影
和歌山 清水町円田 写真は私が作った写真クラブ写団寝屋川会員 田中恒次氏と2人で行き田中さんに歩いてもらった。
約30分は露光したかも!! ISO25のフイルムで絞りはF16のB(バルブ)撮影、
よみうり文化センターの三坂康一氏に同技法を公開して彼はJPS展で金賞を99”年に受賞、
西田佳代さんも能登紀行で”89”年に金賞と2人の弟子が受賞。
テクニック、技術とも私が指導し心より嬉しかった。
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002 (48) 丸山千枚田(mie) 1995年撮影
素晴らしい自然43号 1997年秋号<日本の棚田・畑を撮る>テクニック解説
丸山千枚田(三重県) 日本一の一目で見える棚田の風景である。1340枚あり・・・
初代棚田の会長「北富士夫」氏と久しくなって・・・(流しそうめん)をご馳走になった事も・・・
日本写真企画フォトコンの別冊で美しい自然・棚田の特集があった、
私は常日頃棚田を発表していたので編集部の大藤様より依頼され、
清水町円田 丹後の新井 この丸山の特集で撮影方法の記事を書いた、得意な分野だ。
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002 (49) 能登の千枚田(isikawa) 1967年撮影
写友の先輩 西嶋保介氏と13年間兄弟の様な付き合いが続いた、
休みが4〜5日あるお正月中心には必ず能登方面だった。
又 必ず能登の千枚田へ・・・当時日本海側は大雪が多く
最初はタングステンフイルムを使わずブルーフイルターB12を良く使用した。
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002 (50) 新井の千枚田(kyouto) 1969年撮影
丹後半島の新井の千枚田 残念ながら年々土地が荒れこの様な姿は僅か数枚に(後継者問題)
ブルーを使う表現に冷たいイメージとか寒さに適している。
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