竹生島白鷺幻想
※作品は左から右に並べて展示しておりますので、
画面左下のグレーのスクロールバーをクリックしたまま
右にスライドさせてご覧ください。
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033 (1) 竹生島 Shiga Nagahamashi(Chikubushima)
竹生島へは漁船をチャーターして島に渡った。
竹生島へは写友「森成雄」氏(日本カメラ’73年度賞2位作家)に案内して頂いた。
関西では最初に竹生島へ渡り、しらさぎを撮影したと語っていた。 関西で有名な川上緑桜氏も案内したと聞く。
左の小島と右の島との間に船を着けてもらって山に登った。
竹生島の約1/3は、しらさぎのコロニーで当時は何万羽もいた(1972年撮影)。
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033 (2) 島の途中 Shiga Nagahamashi
緑いっぱいの山で当時、森の茂みでなかなか空が見えない位、緑の深い森でした。
やっと見える位置から湖と鳥を撮影、しらさぎだけでなくアオサギも多く見られた。
グリンパワー(森林文化協会’84)に発表している。
個展’78 ・ ’81、ニコンで開催した時、東京のライブラリーの会社、
キューインターナショナルの安村氏が来て、しらさぎを数多く撮影しているのを知り、色々と紹介して頂いた。
また自分でも個人ライブラリー(写真のリース)の事務所を開設して、
業界で琵琶湖の作品としらさぎは当時から知られていた(1976年撮影)。
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033 (3) 群れ Shiga Nagahamashi
竹生島に登る時、木につかまったり落葉を踏みながら歩くので足音が響き、
鳥たちが驚いて一瞬飛び立つがまた戻って来る、それは卵を抱いているからです。
しらさぎの繁殖期は4月〜8月が主だった。ピークは6月〜7月でした(1976年撮影)。
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033 (4) 雨日 Shiga Nagahamashi
撮影日を決めると漁船をチャーターします。写友の森成雄氏とも約束しているので雨日でも登ります。
雨の日の写真は良い作品になりづらいが?、しらさぎを見たらシャッターを数多く押していました。
当時、アナログのフイルム36枚撮りを20本〜30本用意し、
時々、中判カメラのブロニカとアサヒペンタックス6×7も持参しました(1979年撮影)。
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033 (5) 白の輝き Shiga Nagahamashi
しらさぎの美しさは感動でした。写真界のしらさぎの巨匠「田中徳太郎」氏の
作品を見て感動し、写友「森成雄」氏の作品でもまた感動しました。
撮影に行く度にしらさぎが好きになりました、写友の森さんは
竹生島のしらさぎの先駆者だったので個展を薦めたり、写真集もしたらと云ったが、
私はアマチュアだから撮影するのが楽しみでプロになるつもりが無いから不要だと良く語っていた(1974年撮影)。
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033 (6) 眼の前 A Shiga Nagahamashi
しらさぎが枝に止まっていた。初期はレンズの長いのが持てなくて、
価格の安いニコンのレフレックス500ミリと1000ミリを購入しました、
作品は500ミリで撮影。私の場合、最初から現在までピントはずっとマニュアルフォーカスです。
73才ともなれば眼が段々衰えて来ています。
自信があってもピントが少しづつ甘くなって来ている、年齢にはかなわない?(1973年撮影)。
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033 (7) 眼の前 B Shiga Nagahamashi
同じレフレックス500ミリで撮影、レンズの明るさは固定の8です。
アナログフイルム(ISO100)を使用のため、シャッタースピードは
1/125秒が平均でしたが、それでも失敗の連続でした。
36枚中、7〜8枚がピントが来ている位?。勿論、手持ちで木と木の間から撮影、
手前の葉っぱで前ボケになっています(1976年撮影)。
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033 (8) 眼の前 C Shiga Nagahamashi
しらさぎも私を見て気にしています。琵琶湖周辺なら逃げられて戻って来ませんが、
竹生島ではヒナや卵を守っていますので、私を観察して安全なら巣に戻ります。
しらさぎとの戦いでありながら悪いなーと云う思いはしらさぎも私を見て気にしています。
琵琶湖周辺なら逃げられて戻って来ませんが、竹生島ではヒナや卵を守っていますので
、私を観察して安全なら巣に戻ります。しらさぎとの戦いでありながら
悪いなーと云う思いは未だにずっと続いています。
カメラマンとは常にあらゆる被写体とも同じだと思います。
私だけでなく世界中のカメラマンはそうだと思う(1975年撮影)。
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033 (9) 眼の前 D Shiga Nagahamashi
しらさぎがポーズをした。色々とシャッターを押しながら考えてこちらも作戦を練る、
カメラアングル・ポジション・シャッターチャンスと!! 、
なかなか満足のいく作品はそう出来るものではない。
1日撮影に行き、1作品出来れば上出来で?、私の場合は数多く行きフイルムも大量に使ってやっとです。
才能がある方でなく、努力は人の何倍もしていたと自負しています(1972年撮影)。
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033 (10) 3羽のしらさぎ Shiga Nagahamashi
しらさぎの繁殖の時期が来たら、やはり相手を見つけます。
カップルになると卵を抱きヒナを交代で抱きます。
作品は多分、相手を選んでいたと私は勝手に思っています。
冬の琵琶湖のしらさぎは少ないけど時々見ました。
春になると東南アジアから、遠くはインドから来ると今村光治良さんは語っていた?、
今村さんは1980年前後、しらさぎで個展をされて私の写真展も良く来て頂き、
しらさぎの話で語り尽した思い出の人だった(1979年撮影)。
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033 (11) 樹の間から Shiga Nagahamashi
竹生島に枯れた木が7〜8本あって、しらさぎが良く止まるのでがチャンスです。
森の中にいきなり入るしらさぎは写真になりません。
一旦止まり一息して巣に入る、その時に沢山のシャッターを切ります。
当時フイルム時代1ショット20円から30円必要、
私の場合は増感現像をしていましたので余分に費用が・・・
現在デジタル時代、フイルム代と現像料は必要ありません。
カメラも良くなり子供でも簡単に写真撮影が可能になり、私の孫は小学校5年生ですが、
カメラを私から取り上げシャッターを勝手に押します。写り具合は全く変わりません。
ただアングルや構図が違うだけ、悲しくなります。
今迄55年のキャリアはどうなってるんだ?と便利な世の中になりました(1979年撮影)。
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033 (12) 送光の中 Shiga Nagahamashi
写真家、田中徳太郎氏は1964年(昭和36年)中日新聞から白サギの写真集を
出版されています、当時450円でした。私が長崎から出て来た年でした。
写真集の中で田中氏は昭和29年浦和、野田のサギ山に出合ったと書いています。
1970年に第2集を講談社より出版(2800円)、両方とも白黒(モノクロ)です。
カラーだと経済的に大変だったと思っています(1970年撮影)。
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033 (13) 見つめる Shiga Nagahamashi
相手を探しているのか?、思いにふけっているのか?分りません。
1980年過ぎ学研から白木靖美氏が訪ねて来た。
滋賀県の湖沼会議に合わせて写真集をしたい希望でした。
結局、企画倒れになりその後、学研の出版物に私の作品を採用して頂いた。
(1)鳥の歳時記、(2)初夏の鳥では表紙になった(1983年発行)。
ただしその時の本の氏名には松島進になって、私はペンネームでカタカナにしていたのに?
時々、この様な事があります、新聞の記事でもありました。当時、松島進氏は写真界では超有名、
JPSの中でも名誉会員をされる有名人でした、写真界の歴史上の作家です、
ただし専門は女性のポートレートが主体でした。
JPS京都展ではお会いしたのが思い出です(1974年撮影)。
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033 (14) 枯木 Shiga Nagahamashi
竹生島の中では一番良い枯木です、この樹に止まっているシーン又は、
その瞬間を良く狙いました。かなり良い作品になり、田中徳太郎氏のサギ山は竹林が多く、
竹生島と野田のサギ山の違いは琵琶湖は湖ですので背景(バック)が良く、
山頂から撮影したで眼下のしらさぎが多い。田中氏はどちらか?と云うと、
眼より上のアングルが多い。その点、私のカメラポジションやアングルは有利でした(1974年撮影)。
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033 (15) しらさぎのラブ Shiga Nagahamashi
お見合いのシーン、お互い良い所をアピールしていました。
背景の湖の波がお分かりだと思いますが、竹生島は本当に素晴らしいコロニーでした。
神の鳥とまで言われたしらさぎも竹生島の歴史には勝てません。
島には宝厳寺1284年(弘安7年)、竹生島寺ともいい竹生島大神宮寺とも云われた。
日本三弁財天もあり、観世音菩薩を安置し西国第三十番札所として知られている。
湖の深さは琵琶湖では一番深く104mとされ竹生島は琵琶湖の中では一番大きい島です(1973年撮影)。
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033 (16) 枯れ木 Shiga Nagahamashi
島の中で一番の枯れ木です、多分何かの都合で折れたのだろう?台風なのか?、
カミナリの落下か分らないが、しらさぎが止まる木として私は大好きでした。
写友の森成雄氏もこの木の上の作品を数点出品し、日本カメラで金賞も受賞している、
審査員は秋山庄太郎氏でした(1973年撮影)。
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033 (17) しらさぎのプロフィール Shiga Nagahamashi
カメラ機材は主にニコンを使用していた、
ニコンFから始まりF2フォトミック・F3・F4・F5・F6まで続いた。
F2とF4がしらさぎの作品の大多数を占める。
F2フォトミックは1975年、カメラ毎日の年度賞1位で頂いた。
ブラックボディーに名前まで入れて頂いた思いでが・・・。
レンズは魚眼レンズからレフレックス500ミリ・1000ミリ、経済が良くなり
性能の良い600ミリはF4で当時60万円位したと思う。
竹生島では600ミリを使用している人は数少なく重たいので三脚が必要でした。
レフ500ミリだと手持ちで軽く、私の中では一番使いやすかった記憶があります、
40年以上前の事です(1973年撮影)。
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033 (18) ダイサギ Shiga Nagahamashi
ピント合わせは常にマニュアル、現在までデジタルに変わってもマニュアル手動です。
特にこの作品の時AFにしたら手前の木にピントが来ます、
その時ハラが立ち、やっぱり自分の眼で手動でピント合わせをします。
それでも失敗したら自分に責任があるのでハラも立ちません(1981年撮影)。
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033 (19) 朝陽を受けて Shiga Nagahamashi
ゼンザブロニカで撮影した時期が10年程ありました。
1973年頃ハッセルブラッド500CMをなんば虹の街の東宝カメラ店で購入、
38万5千円だったと思っている。東宝カメラさんとは私も写真業をしていましたので
取引していました。カメラのナニワとも取引していましたが東宝カメラさんの方が
安く仕入れられたからです。多分、取引量が多いので値引きが大型店の方に割引率が多かったのです。
東宝カメラさんがある程度利益を取り、私に安く販売されたのだと思います。
作品はアマテラス(日本芸術出版社)で発表した思い出が?(1976年撮影)。
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033 (20) しらさぎ達 A Shiga Nagahamashi
ゼンザブロニカのボディーにニコンの35ミリ用1000ミリレフレックスを改造して使用した、
改造は写団「蟲」時代にクラブ員の大村氏に改造して頂いた。
2019年 3月 1日〜6日、くずはモール内のギャラリーで マツシマススム 琵琶湖 55 しらさぎ出版記念グループ展で初日に、
馬場章夫さん親子・馬場哲平さん、ばんちゃんねるJOBBBインターネットラジオと
You Tubeを主催、当日取材に来られました。
ラジオとユーチューブの中にブロニカの話を入れています。
作品は私の写真人生55年の中、最高作品が生れたと思っています。
1981年滋賀県の観光ポスターに選ばれて、APA(日本写真広告協会)
APAアワード広告写真’80に取り上げられました。
’80とは1980年代が日本経済の豊かな時代の広告作品、
10年間から日本の元気な時代の広告作品として取り上げられました、 富士フォトサロンで展示されました(2009年)。
その作品を改造レンズで撮りポスターにもなり私の中で最高利益も創った作品シリーズです。
作品はポスターとは違い類似作品です・・・(1977年撮影)。
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033 (21) しらさぎ達 B Shiga Nagahamashi
早朝竹生島に登って撮影、朝7時頃だったと思う、
晴天でなく霞がかかり太陽も出なく・・・まるで墨絵の世界でした。
この色合いは一度きりでその後はありませんでした。
写真とは光とはそんな微妙な世界です。同じ作品は2度と撮れないのです、
琵琶湖 55 しらさぎ幻想に類似作品(日本写真企画 2019年 1月 1日発行)を発表しています (1977年撮影)。
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033 (22) リングボケ Shiga Nagahamashi
ニコンレフレックス1000ミリによる後方のリングボケです、レフレックスレンズに出来るボケ効果です。
作品は樹の間にしらさぎ、後方は琵琶湖の湖面の光によるボケ効果です。
湖面に波がある時に出ます、波が無い時は出ません、経験から知りました。
波の高さで太陽光の光を受けるのです。琵琶湖のテーマの撮影で何十回と経験しました。
竹生島だけでなく湖畔でも発生します、レフレックスレンズだけでなく
通常のレンズでも波のボケ効果はあります(1976年撮影)。
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033 (23) 朝陽を受けて Shiga Nagahamashi
レフレックスレンズの被写界深度は浅く1mもありません、
ゼンザブロニカは6×6判、普通12枚撮りですが後方のフイルムフォルダーを別売りで買い
24枚撮影出来ました。主に撮影は35ミリで光とか樹の上のしらさぎの状態で
ブロニカを使用しました。ブローニーフイルム代は割高のため経済上10本〜15本用意、
35ミリフイルムは常に30本は持参しました。竹生島へは船代と合わせると5万〜8万、
当時ビックリする位経費が掛かり、写真集は4,300円と普通なら高いかもしれませんが?、
立派な家一軒建つぐらい私は琵琶湖に費用をかけています。
恐らく私ほど費用をかけた人はあまりいないと自信があります(苦笑)。
絞り固定F11・シャッタースピード1/125秒・ISO100を200に増感しています
(1978年撮影)。
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033 (24) ゼンザブロニカ Shiga Nagahamashi
当時、ゼンザブロニカはニコンのレンズを採用していました、
ただしレフレックスは使用出来ないので改造したのです。
1975年フォトアート誌(研光社)でブロニカで撮影して入選し、
更にニッコールフォトコンテストもブロニカで撮影した作品が入選しました。
三木淳氏がニッコールクラブの会長をされて、世間では三木天皇と呼ぶ人も多かった、
それ位の実力者です。吉田茂のポートレートでタイムライフ誌の表紙を飾り有名でした。
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033 (25) 飛立つ Shiga Nagahamashi
1981年、私がJPS展金賞で表彰式の時に親しくなり可愛がってもらいました。
JPS展の京都では私の作品、スライド80点を映写しながら
二人でトークしたのは今では思い出として忘れられません(1977年撮影)。
しらさぎが飛立つ瞬間です、デジタルだと ISO感度を今なら1,000とか
1,600にしています。作品は羽根がぶれています、当時はこれが精一杯でした。
私が作品のしらさぎを沢山撮れたのも私の経済状態が良く70年〜80年代バブルと日本経済が上昇していた時代。
奥さんが写真業を営んで売上げも良く、私は休みだけでなく時間があれば殆んど琵琶湖に行っていました。
私が思っているのは写真に使う費用がなければ何もできません。
写真学校の同級生を見ていると食べて行くのに精いっぱいです。
当時撮影に出かける余裕がある人は殆どいなかった、私は幸せ者でした(1982年撮影)。
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033 (26) 巣作り A Shiga Nagahamashi
毎年5月〜6月は巣作りをしていた、ツガイが交代で巣作りをしている様だった。
しらさぎ達はクチバシに枝を加えて、せっせと森の中に入って行く、
人間も鳥も同じだと思いました。しらさぎだけでなく他の野鳥も同じです、
安全な場所を選び風を除けまた動きやすい様に出入口も考えています、
凄いと思っています(1982年撮影)。
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033 (27) 巣作り B Shiga Nagahamashi
ツガイで交互に枝をクチバシで運ぶ姿は実に微笑ましい。
私も既に73才、結婚して52年多分同じだったと思っている、
しらさぎは一夫一婦制らしい?、琵琶湖で一番安全な所は竹生島でした。
沖ノ島(近江八幡市)でもコロニーはあったが早い時期に追い去られた、
他に滋賀県では6ケ所あるとワイルドライフ1984・6、素晴らしい野生の世界で
琵琶湖周辺のサギの現状で記事をお書きになっているのを見ると、ほぼ私と同じものだった。
岡田登美男氏は当時滋賀県野鳥の会の代表をされている、私もこの雑誌に写真を発表。
「白の舞 竹生島のサギたち」と云う記事を文と写真6点採用されて話題になり、
その後しらさぎの写真家として新幹線の雑誌L&Gやポスター・滋賀銀行、 他色々な所で採用された(1980年撮影)。
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033 (28) 巣作り C Shiga Nagahamashi
ツガイのしらさぎです、交代で枝をくわえているのを撮影しました、美しい光景です。
右の緑は前ボケでムードが出ています。ボケを確認するとレフレックス500ミリです、
F8の固定 ・ シャッタースピード1/60秒です。日本人作家320名に選ばれ、
または1988年APA映像曼荼羅等に竹生島を発表している(1980年撮影)。
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033 (29) 抱卵 Shiga Nagahamashi
親鳥が卵を守っている状態です、私もそっとシャッターを押しました。
当時はフォーカルプレーンシャッターでミラーが返りますのでガシャツと云う音がしました。
竹生島では写友の森さんと2人だけ、彼は別の場所で撮影、
同じ所では竹生島名物の老木にしらさぎが止まる時はやはり同時でした。
その写友も2019年で87才、今では歩くのも大変だと言います(1980年撮影)。
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033 (30) ヒナ誕生 A Shiga Nagahamashi
1984年5月号のグリンパワー森林文化に類似作品をを発表しています。
私が近づくとヒナは寄り合い自分を守ろうとしています。可愛い反面
グロテスクです、生れてから数日後はしらさぎのヒナは美しいとは思いません、
やはり白い羽根が整っている方が美しい。ファインダー越しにゾッとした事が
数回ありました、ヒナを撮影しながらカメラマンとは因果な商売だと!!
ヒナ達に悪い事をした様で私は、あんまりヒナの撮影は好きにならなかった。
記録だけにしようと思った、然し竹生島ではこの様な撮影は3年後は無理でした、
親鳥たちは安全を考えてだろう初年度は1m〜3m以内が2年後は20m〜30mと
3年後は40m〜50mと抱卵場所が遠くなった(1972年撮影)。
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033 (31) ヒナ誕生 B Shiga Nagahamashi
親鳥のしらさぎが交代でヒナを守っていた、人間も同じで
子供誕生なら夫婦で守って行く事は同じだと感じながらシャッターを押した。
野鳥の会の月刊誌でコサギの場合6日ヒナの成長誕生でズレがあると書いてあった。
しらさぎの卵は4個良く見たが誕生して成長するまで数が少なくなるのが多い、
4羽同時に成長するのは珍しかった(1980年撮影)。
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033 (32) 3羽のヒナ Shiga Nagahamashi
1羽少なかった、写真でお分かりの様に親鳥のしらさぎは羽根が美しく、
日本画を見ると殆ど親鳥のしらさぎばかり?白い羽根はより美しく感じられます。
大先輩の田中徳太郎さんはサギだけを撮影、浦和市の野田のサギ山から
サギが消えたとたん撮影を中止されました。その野田のサギ山が終了する頃、
竹生島に一度訪れたと人づてに聞いた、本当は諦めたくなかったのではと思っている(1982年撮影)。
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033 (33) 餌を Shiga Nagahamashi
親鳥のしらさぎがヒナに餌をあげる瞬間です、
勿論、シャッターを連続押して撮影しますが当時、連写は有りません。
一回シャッターを切りフイルムを巻き上げて又シャッターを押すの繰り返しです、現在のデジタルと違います。
私の周りの生徒さん達は1秒間に12枚から撮影出来るカメラを7〜8人持っています。
ムービーと同じ位のシャッターになって来ました。北海道にオオワシを撮影に約30年行っていますが、
ここ10年デジタルカメラの進歩で生徒さんの方が良いカメラですので、
私の方がシャッターチャンスが遅れ続ける状態です(1976年撮影)。
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033 (34) ダイサギ Shiga Nagahamashi
サギの種類も8種類前後、竹生島ではダイサギ ・ チューサギ ・ コサギ ・
ゴイサギ ・ アオサギの5種類でした。写友の森さんは1977年頃
ゴイサギとしらさぎ2羽で二科展入選しました、それ位珍しかったのです。
私は竹生島のしらさぎはコンテストには一切応募しなかった、理由は二つ、
一つは写友の森さんに案内して頂いたので譲りました。
案内した人にコンテスト出品したら悪いと思いました、
もう一つの理由は先輩の川上緑桜氏とその弟子さん数人も撮影に行っていたので・・・
川上氏に連れて行ってとお願いしても返事がなかった。後で分ったのは
車の運転が出来なく自分で決められなかった、お弟子さんの都合で決まるからです。
写友の森さんが最初に川上氏を案内したと聞き、森さんにお願いしたら快く引受けて頂き
現在まで友人、先輩として続いている。既に50年近くなった、私の写真集出版祝賀会には招待しました。
2019年 8月16日〜22日、富士フォトサロン大阪の写真展にも招待出品します(1979年撮影)。
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033 (35) 雄姿 Shiga Nagahamashi
しらさぎのこのポーズは私から見て良い作品です。
写真集に入れる予定でしたが何故中止したか?、
余り良い作品ばかりだとリズムが盛り上がり、写真展の個展はストーリーや音楽と同じで
リズムが無いとダメだと1978年ニコンサロンで個展の時、三木淳先生が私に語った言葉です。
当時、私は良いものを飾れば良いと思っていたのでなるほどと思いました。
音楽のステージでラストにある全楽器でピークの音が最初から最後まで続いたら飽きが来ると思います。
三木先生から教えて頂いた言葉を今回の写真集でも頭に入れながら編集しました。
この記事を書いている4月中旬、発行して4ケ月ですが写真集を見た方から大評判です。
このギャラリーを見た方は是非、写真集を買って下さい(1982年撮影)。
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033 (36) コサギ Shiga Nagahamashi
しらさぎの中でコサギは頭に冠羽があります、夏の竹生島で良く見かけました。
鳥の長さは約60cm琵琶湖では年中見られます、冬の時期は少なくなります。
コサギは私の経験では多い年も少ない年もあり全く鳥の世界は足にGPSを付けないと動きは分りません。
大先輩の今村光治良さんはインドやフイリピンから来ていると断言までしていました。
野鳥の本でもその様な事を書いている書物がありますが本当は余り分っていないのでは!!
私の見解です(1979年撮影)。 ※-2露出補正
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033 (37) ダイサギ Shiga Nagahamashi
琵琶湖幻想 55 しらさぎ写真集に類似作品を掲載、
私の好きな作品でしらさぎの優雅な姿で迫力がありました。
フイルムのアナログです、私は1964年から2019年迄のしらさぎをまとめました。
ただし殆んどデジタルではなくアナログで選んでいます。
デジタル時代はこの様に大きく撮影出来るチャンスが殆んど無くなりました(1984年撮影)。
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033 (38) ヒナの成長 Shiga Nagahamashi
左の方がヒナで親鳥より大きく見えます、そろそろ巣立ちです。
私の場合、撮影は竹生島のコロニーですので琵琶湖の北部にある有名な竹生島がテーマでした。
湖中の島です、漁船をチャーターして島に行くのが主でしたが、時々宝厳寺行の連絡船で
サギ山に登り、お寺さんから注意を受けてから漁船のチャーターのみにしました。連絡観光船は
不定期もあり当時、しらさぎのチャンスも殆んど終わりの頃に着きますので?作品になりませんでした。
他のカメラマンは予算の関係と漁船のチャーターの仕方も分らず、殆んど私達が独占状態でした。
早朝だと光も良く白鷺の動き、餌を求めて飛び立つのでその時がチャンスです、
早朝の4時〜5時に登り8時過ぎは鳥が落ち着くので、私達も殆んどシャッターを押しません。
他のカメラマンは鳥の動きの無い時間帯に上陸しても作品にならないので、
諦めて続けて行く人は少なかったと聞いています(1982年撮影)。
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033 (39) ダイサギ Shiga Nagahamashi
私の写真集に入れる予定でしたが?残念ながら諦めました、
ダイサギが大きく撮影出来たのとリングボケ、左側の効果が好きだったからです。
しらさぎは全国各地にいるので多くのカメラマンがシャッターを押しています。
その中で作品を撮れるカメラマンは数少ない、撮っても撮っても作品になりにくい、
それは僅かな差ですが?しらさぎをここまで大きく撮るのには撮影距離とイメージ、
しらさぎを盛り上げる芸術的な条件が必要です。
作品は単なるボケ効果ですがこれが良いのです、絵のように感じられます。
鳥だけでは作品なりにくいのを知って楽しんでください(1974年撮影)。
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033 (40) 移動 Shiga Nagahamashi
しらさぎが次の場所に移動するタイミングだったのでシャッターを押した。
1970年代、しらさぎの撮影は竹生島がメインだった。
コロニーはしらさぎの糞で樹が枯れ始めた。75年頃から範囲が広くなって来た
80年代に入ると多分、滋賀県でも問題になっていたと思う。
1984年には白鷺の数が急に少なくなり翌年は殆んど見当たらなくなっていた後日、
漁師さんに聞くとしらさぎは人工的に追い払われたと聞いた。仕方がないと思った、
竹生島の山上付近は地肌が見える位、樹が枯れてひどい状態でした(1974年撮影)。
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033 (41) 大作 Shiga Nagahamashi
作品は写真集に入れるか最後まで迷った、竹生島での作品では私の中でトップ作品でした。
写真集の見開きのページにも思った程だったが、先程書いた様に単写真の1点づつの写真集では無い、
あくまで55年の琵琶湖の貴重な風景が変わり行く作品と重ね合わせました。
自分の中で集大成の写真集だとして私の歴史・ストーリー・流れと組合せする中で
涙ながら除外した作品です(1982年撮影)。
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033 (42) 背伸び Shiga Nagahamashi
ヒナが成長して巣立ち前だった、一人立ちして大空に舞うヒナは私の経験から30日前後でした。
被写体地が竹生島ですので毎日見る訳には行きません。
撮影に行った時は巣立ち後が多かった、その他のヒナはそれぞれ成長していた。
しらさぎの大家「田中徳太郎」氏の事を知っているカメラマンは私の周りには誰一人いない。
先輩「今村光治良」さんの事も話に出て来ない、同世代の先輩「川上緑桜」氏は
まだ在籍のクラブが残っているので時々、私の作品を見ながら言葉を発する人がいます(1981年撮影)。
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033 (43) 巣立つは明日か? Shiga Nagahamashi
私が最初に訪れた頃の竹生島は島の半分に何万羽と?、数はハッキり数えられない位、
沢山のサギたちでいっぱいでした。ヒナが誕生して成長期になるとうるさい程の鳴き声でした、
それが8月中旬になるとひっそり、9月には僅か数羽でした。
近年、琵琶湖の至る所で見られたしらさぎは現在、琵琶湖を一周しても100羽も見れない、
ただし、私はしらさぎだけ追うのでは無く、他の被写体・風景・人物等を含めて車で走っての話です。
しらさぎだけ追い求めたら500羽位でしょうか?、しらさぎもそれぞれ移動していますので?
しらさぎの多い安曇川や姉川だけで500羽いる時もあれば、また数える位に少ない時も(1977年撮影)。
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033 (44) 竹生島の横の小島 Shiga Nagahamashi
しらさぎの撮影は1986年まで写友の森成雄氏と殆ど2人で行動していました。
竹生島の隣の小島です、小島と本体の竹生島との距離は50m程ありその間に船を着けました。
船で島に近づくとエンジン音でしらさぎ達は飛立っていました。
写友の森さんはペンタックス6×7一式とニコンカメラ及び400ミリ ・ 600ミリ、
或る時は800ミリも・・・多分お金持ち?かなと思いました。
聞くと写真だけが趣味だと、私はゼンザブロニカとニコンレフレックス1000ミリがせいぜい、
35ミリはレフ500ミリと70〜300ミリのサンズームレンズが精一杯。
私が思うには森さんの方が良い作品を創っていたと思っています。
その時に撮影したフイルムはどうしたと聞いたら全部捨てたと云う。
アマチュアなら持っていてもゴミになると語っていた、私は未だにフイルム(スライド)は一応残している。
1964〜1970年迄の白黒(モノクロ)フイルムは処分したが・・・
私は写真に人生をかけただけに捨てられない(1972年撮影)。
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033 (45) 太陽の中 Shiga Nagahamashi
夏場の4月〜8月、日の出は早い。4時には竹生島に登って日の出を待つ、太陽が昇る位置を計算して
しらさぎを探すがそう簡単ではなく、山頂を数十メートル移動しながらポジションを見つける。
2019年 1月 1日フォトコンの日本写真企画よりマツシマススム写真集
「琵琶湖幻想 55 しらさぎ」を出版、それに合わせてグループ展を開催。
くずはアートギャラリー(京阪くずは駅花のモール内)にて今回で2回目、枚方のダイコロ写真部でも出品。
ツアーのお弟子さんだった安藤良子さんも同じギャラリーで開催し、何かと縁があるギャラリーです。
くずはギャラリーはショッピングセンターの入口にあり素晴らしいギャラリーです。
スタッフの対応も良く最高です(1980年撮影)。
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033 (46) 幻想 Shiga Nagahamashi
作品は何かの都合で威嚇だと思う?、奈良の鹿も立ち上がって威嚇しボクシングをする。
作品のしらさぎは最高のチャンスだった、竹生島で数十年撮影しているが
このシーンは僅か3回位しかなかった。別の知内浜では1日だけで数十回ありました。
知内浜では餌の獲り合いでしたが、竹生島は巣が隣と近すぎて喧嘩したのだと思う?あくまで推測です。
くずはギャラリーでは「ごめんやす馬場章夫」で有名だったバンちゃん親子が初日、取材に来られました。
毎日放送ラジオ番組を31年間もされた有名人で写真好きの探検家としても知られる。
私の地元に毎日放送の森本さんが店のお客さんとして来店していました。
森本さんと2人で良くコーヒーを飲みました、或る日バンちゃんを連れて来て紹介されました、
それからバンちゃんの大ファンになり時間があればバンちゃんの毎日放送ラジオばかり 聞いていました(1979年撮影)。
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033 (47) 羽ばたき Shiga Nagahamashi
くずはギャラリーでは息子さんの馬場哲平さん(http://jobbb.jp/)親子で
久しぶりの再会、父親の眼元にそっくりな哲平さんは男前でした。
2人共さすがラジオで鍛えた声はハッキリしてスピードが有り
私はついて行けない位に早口で頭の良さがハッキリ分りました。
私は思ったほど喋れなくて・・・他のTVやラジオの取材も数回受けましたが、
どうも緊張するのか自分らしさが出せなくて失敗ばかりです。
皆さん良かったらJOBBBネットラジオとYouTubeを見て下さい、
見たら「いいね」をクリックしてください、私の過去を喋っています宜しくね(1981年撮影)。
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033 (48) 水面の輝き Shiga Nagahamashi
竹生島の山頂から撮影、山頂と云っても山と違って島の上なので100mもなく
30分程で道なき道を登ります。足元は落葉が20〜30センチと積り滑りやすく
歩くのは大変でした。山頂から僅かに見える琵琶湖の水面に日の出の水面の光跡を撮影しました。
反射した水面は美しい、時々しらさぎを入れて撮影、今ではこのシーンとしらさぎは撮影不可能、
貴重な作品になりました。歴史をたどって55年を写真集では振り返っています。
是非、高いですが私の55年の歴史を知ってほしいです。
写真集では私の琵琶湖の全ての記録を発表しています(1974年撮影)。
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033 (49) 朝の羽ばたき Shiga Nagahamashi
ギャラリーの最後のあたりに持ってきました、竹生島の早朝撮影をするので
真夜中の1時に出発、竹生島山頂では4時〜5時頃まで待ちます、まるで徹夜です
3〜4時間は持参したビニールを敷き顔にはビニール製のジャンバーをかけて寝ます。
上からしらさぎの糞がボトボトと落ちて来ます、撮影中のレンズは糞で真っ白になります。
糞の臭いで体全体が臭く、帰り道レストランで食事をすると店員さんに嫌な顔をされます、
それも今では思い出です。この作品の様な美しい朝雲の中、雄大なしらさぎが
今では全く撮れない残念でならない、大好きな作品です(1979年撮影)。
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033 (50) 鵜の大群 Shiga Nagahamashi
竹生島からしらさぎが追われて約10年前後、しらさぎのコロニーの後に鵜の大群が押し寄せて来た。
漁師さんの話だ4年〜5年の間に3万〜6万羽とか?、しらさぎの糞より強くアッという間に樹が枯れた。
私は大阪、朝日新聞の朝日カルチャー中之島の講師を依頼されて現在14年目です。
琵琶湖を撮ろうと云うテーマで写真教室が始まり琵琶湖の竹生島を案内した、鵜が大量に来ているのを知り
チャンスがあれば鵜の大群が撮れると思い、知合いの漁師の松岡さんにお願いして竹生島に2回行き撮影。
その鵜も数年後に追われた、今は島を再生中です朝日カルチャー中之島教室では3ケ月の中で2回実習、現在は
関西を撮ろうと云うテーマで兵庫 ・ 京都 ・ 奈良 ・ 滋賀 ・ 福井と遠い所まで実習で撮影に行っています。
皆さんも是非、朝日カルチャーへの入会をお待ちしています。
TEL 06(6222)5222 中之島教室(2009年撮影)。
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