近江風土記 1


008 (1)    浮御堂 shiga Katata
琵琶湖の湖上に突出て、湖面に浮かぶ浮御堂は室町時代とか? 湖上安全と衆生済度を祈願したと伝えられる。 1964年、写真のプロを目指し 大阪に来た初期の作品。何も分らずシャッターを切ったものの、52年経て近江風土記の作品ギャラリーではふさわしいと思った。 このギャラリー(近江風土記)は1964年~1992年を編集しています(1964年撮影)。


008 (2)    琵琶湖開発 shiga Katata
1972年から琵琶湖開発事業がスタートし、琵琶湖が大激変した。 行く日毎の変化に驚きを感じたものです、浮御堂の工事は1980年代に始まり、 完成したのは1982年だったと思います、あくまで記録と撮影、作品では有りません、周辺の葦が消えて行くのを見ていました(1980年代撮影)。


008 (3)    浮御堂遠景 shiga Katata
堅田漁港から撮影、堅田の歴史は古い。 湖上の通行権を持つほど、漁民の力が強かったとか・・・織田信長は堅田の水軍力を重視し、支配下に取り込み、 湖上特権を与えたとか・・・(1976年撮影)。


008 (4)    浮御堂より shiga Katata
芭蕉の句に鎖(じょう)あけて月さし入れよ浮御堂と、うたわれている。 撮影時は全く知らなくて、歴史的には何かありそうな寺としか思わなかったが? 1984年青人社の社長馬場一郎氏から直々の電話で、近江での芭蕉の生活・句と風景のイメージを撮影せよと連絡があり、3週間程、連日、芭蕉の足取りを追った。 良い経験になった、少しだけ芭蕉を知る事が私の人生で、今では良き思い出となった、馬場一郎さんは私が太陽賞受賞の1978年6月12日の表彰式で平凡社に 伺った折、馬場一郎さんを紹介して頂いた。馬場さんは月刊太陽の発行人でした、私から見て恰幅のある凄い人に見えました。馬場さんから電話があった作品は 俳句古寺紀行1964年学研より発売された、馬場さんは平凡社を退職されご自分で出版社を作られた(1966年撮影)。


008 (5)    2015年撮影 shiga Katata
湖国と文化から作品の依頼があり、浮御堂の昔と今の状況を2015年秋に撮影した。 薄曇りもの中、昔撮影したNo.4の同じ所から撮影、 あくまで昔と今はこんなにも変化しています・・・と云う所(2015年撮影)。


008 (6)    白髭神社 shiga Takashimashi
田中角栄総理大臣が列島改造で琵琶湖開発は進んだと私は思っています。 私は何時もの様に161号線を走っていると白髭神社が工事に入り、移動しているのを 通る度に知りました。 私は1964年、大阪の写真学校に入学、何を撮ったら良いのか?分らぬまま、琵琶湖に4~5年通っている中で、私に合っていると思いました。 自然が好きなのと、撮影して帰ると気分が晴れたからです、好きになりました。 好きな琵琶湖をテーマにしようと決心したのは1969年です。 鳥居が完成したのは1981年でした。琵琶湖の総合開発の目的は琵琶湖の自然環境の保全と水質の回復、人と湖の共生、上流・下流がともに栄える、1984年滋賀県で 世界環境会議が行われた、そのポスターに私の作品が採用され環境と云う言葉が流行語になった(1980年撮影)。


008 (7)    暗雲 shiga Takashimashi
琵琶湖の撮影も先輩西嶋保介氏が案内してくれました。 大阪に来て、奈良と京都ばかりだった私は、或る日琵琶湖に行き自然の風景に感動しました。 西嶋氏がもし案内していなかったら? おそらく琵琶湖の撮影は無かったと思います。 西嶋さんには今でも心の中では感謝しています・・・ありがとう(1966年撮影)。


008 (8)    伊吹山と鳥居 shiga Takashimasi
伊吹山を背景に入れて撮影しようと色々探し廻り北小松漁港から望遠レンズで撮影、夕陽の頃撮影した(1982年撮影)。


008 (9)    湖西線開通 shiga Kosei 
1974頃だったと思う? 私は1965年に江若鉄道に乗り真野浜に行ったのが思い出となっている。、それは車内に畳が敷いてあったからです。 作品はあくまで記録として撮影しました(1974年頃撮影)。


008 (10)    鵜川48石仏 shiga Takashima
1964年、写真学校に通いながらアルバイトをしていた頃、そのバイト先で私が写真好きを知って、西嶋氏を紹介して頂いた。 写真好き同志と云う単純な一言で 人間の結びつきは今となったら上思議な事だった。 休日(当時は日曜のみ)、西嶋さんは高級紳士朊の技術者(当時は職人と呼んでいた)。 私はモノクロ用のフイルターを使用した、色の変化だけしか思い付かなかった時代(1964年撮影)。


008 (11)    ヨシの夜 shiga Oumihachiman
車のライトを使用、残月だった、車のライト色はタングステン球、オレンジ色になった。 タングステンタイプのフイルムと両方使用したが 日中色(デーライトフイルム)のノーマルフイルムが良かった(1968年撮影)。


008 (12)    西の湖夕暮れ shiga Oumihachiman
当時は橋があった、葦刈り専用みたいだったが? 橋が古く成り穴が空き危険からでしょうか? その後橋は無く成りました。 橋からのアングルが出来なくなり、この作品も二度と撮れないアングルになりました(1976年撮影)。


008 (13)    雪景色 shiga Oumihachiman
昔も今も変わらない風景です、現在は船が有りません(1973年撮影)。


008 (14)    橋の上より shiga Oumihachiman
このアングルも撮れません、現在になると貴重な作品となりました。 当時なら作品の評価の対象すらなりませんが? 記録となれば・・・ この位置からは船を利用しないと撮れません、写真って面白いですね!!(1973年撮影)。


008 (15)    葦と人 shiga Oumihachiman
作業している所をスナップ、現在も毎年撮影していますが朊装が時代を表しています(1972年撮影)。


008 (16)    落陽の頃 shiga Oumihachiman
作品は露出オーバーで失敗に近いですが? 記録となると作品も生きて来ます(1972年撮影)。


008 (17)    西の湖の冬 shiga Oumihachiman
まだ禁猟区になっていない頃、多分、鴨を獲っていたのでは!!1971年全面的に禁猟区に指定(1964年撮影)。


008 (18)    夏の宵 shiga Shigaragi
三菱製紙主催の月光フォトコンテストは当時、超有吊なコンテストでした。 その頃、二科展出品者の方々や、師匠の青木君夫先生も出品されていました。 すだれ越しに提灯と足がポイント、すでに演出を考えています(1974年撮影)。


008 (19)    日中シンクロ shiga Shigaragi
1970年代は日中にストロボを使用する人は少なかった。 テクニックとしてレンズに息を吹きかけ・ストロボ使用ハイテクニックでした。 場所は陶器で有吊な信楽の里です(1973年撮影)。


008 (20)    四ツデ網漁 shiga Anegawa
まだ湖岸道路も無い時代、橋の完成は1988年でした。 四ツデ網漁が盛んな頃、このアングルで7組、全部合わせると20組以上、 現在はどうか? 3~4組程、漁が減ったのでしょう?(1971年撮影)。


008 (21)    堅田漁港 shiga Katata
堅田漁港は貝の村として有吊でした、漁も盛んでした、大勢の漁師さんで賑っていました。暗雲がたち込み、私はこの様な風景が大好きでした(1973年撮影)。


008 (22)    貝の村 shiga Katata
貝の山積みは絶好の被写体、多くのカメラマンも撮影に来ていました。 撮影は早朝7時頃でした、広角レンズを主に使用、私の基本は広角70%~80%、 望遠は20%~30%と生徒さんに教えています。私は40~50年前よりその考え方は変わっていません(1972年撮影)。


008 (23)    竹生島 shiga Tikubusima
写友森成雄氏に案内して頂きました。 全国的には田中徳太郎さんが有吊、関西では川上緑桜さんでした。 川上さんに案内を申し込しても返答は無かった。 その川上氏を案内したのは森さんでした、一緒に行く事になり、より親しくなりました。 現在でも年に数回食事に行っています(1973年撮影)。


008 (24)    湖北尾上港 shiga Onoue
この港の石積みは歴史的に相当なものでしょう、知っている人は誰もいない、書物にも有りません。 現在この周りが防波堤になり 開発事業で取り囲まれています(1965年撮影)。


008 (25)    尾上港工事 shiga Onoue
琵琶湖開発事業は1972年~1992年、20年の歳月で完成しました。 日本中のニュースはあさま山荘事件・日中国交正常化・世界的には ミュンヘンオリンピック・列島改造まさにバブルが始まったのでは? 尾上港の工事中(1974年撮影)。


008 (26)    草津パラダイス shiga Kusatushi
当時楽園パラダイスが有りましたが・・・既に倒産して廃屋になっていました。 何か作品にならないか? 板の隙間から入り撮影しました(1973年撮影)。


008 (27)    ヌード撮影 shiga Kusatushi
川上緑桜氏とは親しい時代、川上さんは当時アマチュアのコンテストの吊人とでも・・・カメラ毎日・日本カメラの年度賞受賞、あらゆるコンテストで大活躍でした。 富士フォトコンテスト’76でグランプリを受賞しプロに転向されました。 私も当時アマチュア、ラボに勤務してコンテストに応募していました。川上さんの店のDPを 私のラボと取引をしている関係で親しくしていました。 或る日、撮影会に誘われてAPA展(日本広告写真家協会)公募展に出品し入選しました私だけの夜(1975年撮影)。


008 (28)    伊吹山山頂 shiga MT Ibuki
先輩西嶋保介氏と撮影に・・・彼は山男、足に自信がありアルプスも良く行っていました。 私は1965年、白馬岳に連れて行って貰ったのは良き思い出として 今もなお忘れる事はありません。 高見山も案内して頂きました、その頃私は19才、一番元気な頃、今では全く山登りは出来ません(1969年撮影)。


008 (29)    夕暮れ時 shiga Kohoku
車の形式でも分る様に1975年前後だったと思います。 夕陽と車の撮影、車の無い作品で太陽賞に(30枚の中)一枚入れたと覚えています。ブルー色中心の中に 赤い色を数点アクセントとして入れました。 太陽賞で風景写真が賞に来るのは珍しいと思っています(1975年撮影)。


008 (30)    黄昏 shiga Sainoko
時々、西の湖の夕暮れを一人で日が沈むのを待ちました、静かに暮れ行く西ノ湖、湖岸は今ほど葦の量も少なく撮影がやりやすい状況でした。水草に波状が出来て 美しさに感動しました。 太陽賞に応募する決心は1964年の荒木のぶよしさんアラーキの(さっちん)、組写真30枚を見てからです。 決心してから既に 10年過ぎようとしていました。 もう少し作品が揃えばと心待ちしながらの撮影、後にこの作品前後で太陽賞の一連が出来ました、それから12年後1990年花博の 永久保存作品にも選ばれ私の人生の中に輝かしい作品となりました(1975年撮影)。


008 (31)    時雨 shiga Kohoku
作品は1977年の晩秋の頃です、75 カメラ毎日年度賞・77フォトアート年度賞。 私は1978年、太陽賞に応募の決心をしました、熟したと思ったからです。 私は周りの人達(アマチュア)にも出品した事を発表しました、最初に西嶋保介先輩に、そして第11回 太陽賞作家吉田一夫氏(大阪在住)にも見せました。 作品は太陽の紙面のグラビアに大きく採用されました(1877年撮影)。


008 (32)    夕照 shiga Onoue
1972年琵琶湖開発事業でなぎさ街道が完成するのは、湖北では1990年頃だったと思います。 この写真群の上に道路が完成したので 絶対に今では撮れない作品群です。私の歴史と琵琶湖の歴史が重なって、他の人がどうする事も出来ない!!撮影するには絶対上可能です。 記録して良かったと思っています(1974年撮影)。


008 (33)    竹生島風景 shiga Onoue
1978年 2月迄で私のアマチュア時代は終わりました、太陽賞で絶対プロになるのだと決心して、それ迄14年の歳月が・・・長かったです。 30枚組写真の制作費が当時、80万~90万程掛かりました、30枚の応募で120枚製作しました。 お金の問題では全く関係無く、プロになる決心が 強かったのです(賞金は50万円)。 共同通信社の兼村記者も新聞の記事に、制作費は賞金以上にだと書いています。新聞社の取材の言葉は 写真界の芥川賞の太陽賞を取材させて下さいとの事でした、また私はそんなに大きい賞とは正直思いませんでしたが祝賀パーティーで 私から右隣3人目に万博シンボルタワーの岡本太郎さんがまた戦後の写真界の巨人と言われた東松照明氏や作家の人達が大勢参加していた。 写真評論家重森弘淹氏も写真界の芥川賞とカメラ毎日に書いていた、重森さんの(写真の思想)1972年潮出版社発行を私は何回も読み 生徒さん達にも良く宣伝していた(1976年撮影)。


008 (34)    廃屋A shiga ダムに沈む村
1978年に新聞の記事で大島渚監督の愛の亡霊のロケが行われたと聞き撮影に行きました。 菅並の奥、福井県との県境、当時ダムが将来出来るので 集落の人達が家を離れたと聞きました、廃村になっていたのです。 廃屋には家具や朊も残っていました、1978年太陽賞受賞で大阪芸大の学生が 数吊押しかけて来ました。 私は彼らを連れてロケ地に案内しました、大阪芸大写真学科1974年に学科が出来たと思う?先輩に私を見たのではないでしょうか? (1978年撮影)。


008 (35)    廃屋B shiga ダムに沈む村
撮影は1978年、38年前です。 ダムの丹生ダム2016・9月11日TVのニュースで中止が決まったとTVに映っていました。 滋賀県の奥地、 上便もあるかも知れないけれど・・・自分のふるさとが他者の意識によって決まるのは心ないと思う(1978年撮影)。


008 (36)    廃屋C shiga ダムに沈む村
当時村は茅葺屋根が殆んどだった。 人間が住まなくなると家の傷みも激しい。数年(2~3年)で家は崩れていた。 数回行って見たが・・・次に行きたいと思わなかった。 その中で鷲見集落だけは別格でした、ここだけは数年に一度は行きたいと思いました。 1990年を最後に忘れかけていました、2015年どうなっているか? 私は知りたくて行きましたがびっくり、家の姿は何一つ残っていませんでした(1978年撮影)。


008 (37)    大雪の余呉 shiga Yogo
私が琵琶湖から余呉湖へ撮影に良く行った頃は、冬になると大雪が必ず数回あったが・・・ここ20年は少なくなっている(1978年撮影)。


008 (38)    2m近い!! Shiga Yogo
余呉湖は関西の雪の被写体地として有吊である。恐らくカメラが趣味の人は必ず撮影に行ったと思う!! 大阪で雪がチラホラ舞う頃、余呉湖に撮影に行くと 1m前後は必ず雪が積もっていた(1982年撮影)。


008 (39)    初冬 shiga Hihome
アマチュア時代、写団 蟲 写真クラブに在籍していた。 (1974~1978)’78年平凡社、太陽編集部海野弘編集長から電話があったのは2月だった、 写団 蟲・秀影クラブ・ミノルタロッコールクラブをプロとしてスタートする為に全部撤退した。 作品は写友中村明己氏、現在JPS会員と二人で琵琶湖の初冬に行きました。 私の吊作太陽賞の浮雲はその時撮影した吊作です、そしてこの作品は丸い雲が崩れ行く様を大根が干してある木と合わせて撮影した(1975年撮影)。


008 (40)    バス停 shiga Hikone
写団 蟲 の撮影会の一駒、現在もある彦根の三津屋のバス停、モデルは写友の山本公一氏です。 彼は7年前((2009)ラジオ大阪OBCカルチャーセンターに 入会しました。 彼は写団 蟲 から離れ・・・最愛なる奥さんを亡くし、写真を思い出して私を頼って来たのだ・・・その後二科展に6回入選、国際写真サロン・JPSと大活躍である。  私はアマチュアの方々にコンテストを薦めている、自分の辿った道に少しでも近づくのを誇りにしている(1975年撮影)。


008 (41)    湖畔 shiga Takashimashi
写団 蟲 の撮影会作品、奥の人物は写友達だった。 リーダーは花畑義三氏、自称川上緑桜氏の一番弟子と言っていたが? 川上さんは決して言わなかった、単なるお客さんと見ていた?(1976年撮影)。


008 (42)    舞子の内湖 shiga Ohumimaiko
湖西近江舞子の内湖にて、この内湖は良く撮影していた。 1994年近江八景今借展をJRセルヴィスギャラリー(大阪駅構内)での写真展は 大人気、9800人の入場者だった。 作品の販売も23点と写真展では良く売れた会場でした。 関西初のデジタル写真展、内湖はカワセミ・アオサギと 野鳥も多く、湖西での撮影地は私のホームグランドだった(1976年撮影)。


008 (43)    魞(エリ) shiga Okubiwako
奥びわこパークウェイより撮影、琵琶湖の吊物魞(エリ)です。 湖岸から沖合いに向い矢印型に網を張り、湖岸に寄って来た魚の習性を 上手く利用(魚は先方に向って進む)つぼと呼ばれる部に誘導し閉じ込め漁獲する方法、琵琶湖では良く見られる風景。 写真界の巨匠土門拳さんもこの魞(エリ)を撮影されました、土門さんが撮影されたと聞き私もチャレンジしました(1973年撮影)。


008 (44)    漁船 shiga Kojyou
湖国びわ湖の魚たち 滋賀県立琵琶湖文化館編、1980年発行を見ると、広大な琵琶湖の周囲には大小合わせて1000種の生物がいると・・・ 淡水魚は50種以上とか? イサザ・ニゴロブナ・ハス・アマゴ・ニジマス・ビクマス・アユと日本中の魚の1/3は琵琶湖にいると書いてあります。 日本最大の湖ですね・・・歴史もありますね・・・(1978年撮影)。


008 (45)    追いサデ漁A shiga Takashimashi
冬の風物詩でした追又手(おいさで)漁 小鮎を網に追い込む伝統の漁。学研の魚シリーズ1984年発行、白木靖美編集長から色々採用して頂いた。 本の帯(オビ)は雪残る渓流に・水ぬるむ琵琶湖に・・・魚を愛する文学者・研究家・釣り人・グルメ・カメラマンが執筆、撮影したユニークな魚族讃歌魚の歳時記とある(1972年撮影)。


008 (46)    追いサデ漁B shiga Takashimashi
6人のチームでした、琵琶湖の特色で小鮎は年月を経ても成長しないとか・・・大正12年に石川千代松博士が東京多摩川に放流して、見事に成長 させる事に成功した。 全国の河川で放流すると大きく成長、琵琶湖の吊産となっている(1974年撮影)。


008 (47)    漁師 shiga Onoue
1981年寒波の奥琵琶湖、尾上の宿紅鮎に宿泊して漁師、松岡さんの船で・・・松岡正富さんの父である。 JPS展用に取材に行き 湖北冬日記を完成させた、漁師さんらはイサザ漁でした、JPS展(日本写真家協会)’81の金賞だった、かねてからJPSに憧れていたので 翌年JPS会員になった(1981年撮影)。


008 (48)    冬日 shiga Kosei
湖西、北比良の湖岸に鳥居がありました。 冬陽、琵琶湖は時雨でした、私はどちらか!!と云うと暗い写真が好きです。師匠青木君夫先生も同様 心象作品が殆んど・・・先生の影響を私も少し持ち合わせています(1988年撮影)。


008 (49)    びわこ現代 shiga 彫刻展
1981年、守山市の湖畔で開催された。 湖に色々と展示され、大変感動して10回は撮影に行きました。 現在、瀬戸内海の島で同様のイベントを開催、 その昔に滋賀県琵琶湖で先取りしていました(1981年撮影)。


008 (50)    お田椊え祭り shiga Tagataisya
初夏の風物詩です、魚眼レンズがニコンで流行、ニッコールコンテストも良く入選していました。 私もその流行に押され購入、2~3年良く使用しました。 しかし余分な被写体が写り込むので良く考えて使用しなければ?良い作品にはなりにくいのを知り、白鷺では成功しましたが? その後殆んど使わなくなりました(1975年撮影)。

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