近江風土記 2


008 (51)    日吉丸 shiga Hamaohutsu
琵琶湖外輪船ミシガン以前に日吉丸(二代目)だった。 1920年建造1982年退役、夏になると家族連れで賑わっていた。 私もそろそろ家族と旅行に行きたいと思った・・・? (1978年撮影)。


008 (52)    山里の村 shiga Takatsukicho
高月町奥びわ湖パークウェイから撮影、山田地区だと思う? 3月、残月が残っていた写真集に発表。2015年同じ角度から撮影して見ようと訪れました、所が樹が大きく伸びて 同じアングルが撮れませんでした(1973年撮影)。


008 (53)    菅浦 shiga Takatsukicho
菅浦半島、竹生島の真北にある。菅浦みかんで知られ葛籠(つづら)尾崎の一部が湖を超えて、湖北町・高月町になっている珍しい地域だ。 歴史は古く奈良時代の初め淳仁天皇の行在所があったという(1972年撮影)。


008 (54)    菅浦の中心 shiga Takatsukicho
近江における商業活動の一つの源流が菅浦にあるとか? 菅浦から大豆・ビワ・麦が天皇の食膳にのぼったと古文書に書いてあると書物で見た。 現在はこの港に総合開発事業で防波堤が完成し整備されV字(画面の下)の船だまりは現在埋め立てられている(1977年撮影)。


008 (55)    菅浦の船だまり shiga Takatsukicho
現在埋め立てられて船の所は道路になっている。 料亭佐吉があったのを思い出す・・・遠い昔の事、40年前・・・私はアマチュア時代、菅浦は何となく好きだった。 私の方から見て琵琶湖の一番奥になる、琵琶湖を制覇した気分だった(1974年撮影)。


008 (56)    廃校 shiga Kutsuki
1970年代、琵琶湖の僻地は廃校が良く見られた、朽木の途中だったと思っているが?その僻地を調べて見ても全く分からない。 現在は跡形も見られず・・・人達もあまりいない・・・(1974年撮影)。


008 (57)    大津文化会館 shiga Otsushi
私はアマチュア時代、家族の事は一切考えず写真に没頭していた、プロの道に邁進していた。 休日は全部写真三昧、1978年太陽賞に決まって プロ活動しながら少しずつ家族で旅行に、最初の旅行は私の得意の琵琶湖に案内紅葉パラダイスにも・・・冬休みと夏休みは必ず旅行に行っている。  私の自慢は家族旅行だけ・・・北海道から沖縄まで、子供達は20年以上、奥さんは35年以上に渡って続けている、下の人物は私の家族、女の子は既に40才を越えている(1979年撮影)。


008 (58)    竹生島 shiga Onoue
?網の道具が・・・この風景は当時良く見かけた風景だ。 近年全く見られなくなった、魚が獲れなくなってきているのだろう? 現在はこの上に道路さざなみ街道と なっている。 旅館紅鮎の横当たりです(1971年撮影)。


008 (59)    竹生島と船 shiga Onoue
私の得意とするタングステンタイプ(フジ64T)を使用、先輩西嶋保介氏と休日に月一度または2ヶ月に一度は必ず撮影に琵琶湖へ通った。 西嶋さんは写真に熱心だったと思う、サンフォトクラブ(中森三弥)氏の指導、光芸クラブ(岩宮武二)氏・別に青木先生のクラブと!!・・・3ヶ所のクラブに、 今時 2ヶ所はあっても3ヶ所は多い方だと思う、ちなみに私も3ヶ所でした(1973年撮影)。


008 (60)    映画ロケ地 shiga Kusatsushi
五社英雄映画監督(1929〜1992)、肉体の門のロケ地、草津市の湖畔にビル4〜5階建他、池に船・駅のイメージと大変な費用が?・・・ 戦後の東京のイメージだとか!!・・・撮影ロケ現場の大きさに私はびっくりしました(1988年撮影)。


008 (61)    現在の湖畔 shiga Kusatsushi
ロケ地の跡を探して見たが・・・湖畔は総合開発にてさざなみ街道として湖周道路ななっている、数ヶ所に駐車スペースがある。 名作田村泰次郎の肉体の門の映画を この場所でロケが行われた。更に5作品が制作されたとか?、私は五社作品を見てかたせ梨乃さんらの女優体当たり演技に感動しました、 他に五社作品で夏目雅子さんの大ファンになりました(2015年撮影)。


008 (62)    伊吹山と桑畑 shiga Kohoku
湖北地方へ撮影に出かけると目立つのは伊吹山、雪が乗る伊吹山は大好きです。 常に伊吹山を見ていますが・・・スッキリ、ハッキリの伊吹山は 中々出会えません。 空気感でしょうか!! この作品は良い方です(1971年撮影)。


008 (63)    湖上の伊吹山 shiga Koseiより
伊吹山に雲が・・・この作品もドラマチックだと思います。 琵琶湖に熱中した時代は月に4〜10回、現在は(2016)月に1〜2度、多い時は3度ほど、 この様な風景にここ数年出合っていない(1978年撮影)。


008 (64)    ホタル shiga Sanntoucho
琵琶湖地方で蛍の有名な山東町、当時役場の西堀さんから教えてもらって、30回は蛍の撮影に行きました。 堀岡洋子さんはバスツアーでの作品が 忘れられない位の良い出来でした。 この作品は撮影の途中でカメラを振り動感を出して見ました(1982年撮影)。


008 (65)    湖畔の思いで shiga Kosei
私はアマチュア時代(1964〜1978)コンテスト入選歴は150回程、写友の森井禎紹氏(2016二科会写真部理事長)は300回以上だとか。 私は1978年にプロに転向、 森井さんは1993年頃プロのJPS会員に・・・お互いアマチュア時代はライバルでした。お互い切磋琢磨していた、現在は彼を尊敬しています(1975年撮影)。


008 (66)    凍る湖畔 shiga Kosei
琵琶湖の冬の寒波は当時凄かった、まるで北海道?とも変わらぬ位の日も・・・地球温暖化でこの様な日も近年めっきり少なくなった(1973年撮影)。


008 (67)    凍結 shiga Kohoku
何時もこの様になるとは限らない、条件によって寒波プラス寒風だろうと思う。 旅行中、東北・北海道で良く冬に見ましたが・・・琵琶湖ではひと冬で 2〜3回? ただし、その時撮影に行けば良いが・・・中々上手く行きません・・・(1977年撮影)。


008 (68)    菜の花 shiga Hikone
春、彦根の菜の花は琵琶湖の中でもひときわ美しい季節だった。 多重で撮影、夕暮れ時、当時彦根プリンスホテル(彦根ビューホテル) が見える、菜の花の咲いていた場所は道路になり、現在ベイシアスーパーの前の湖畔辺りだった(1985年撮影)。


008 (69)    松原湖畔 shiga Hikone
彦根プリンスホテル(当時)松原浜、夏は水泳場で賑わう。 四輪駆動の車が浜で遊んでいました、また私も四駆だったので砂地を走るのが好きでした。 アウトドアの典型的な人間でした、現在は砂場に車が入れなくなっている(1985年撮影)。


008 (70)    湖畔 shiga Outsushi
ヨットが湖畔で佇んでいる、造形的に形よく撮影、青天ではないが曇り空でした・・・時代の背景をヨットの種類で分かる人は分ると思います(1977年撮影)。


008 (71)    ヨット shiga Hikone
現在大型スーパーベイシアの前の湖畔はヨットが数多く・・・琵琶湖らしさが残っていた、遠景に多景島が見える。 手前の反映は自分の車の屋根を利用。 撮影にはアイデア・アングル等、色々と考えなければならない(1975年撮影)。


008 (72)    台風 shiga Hikone
琵琶湖も20m以上の風速ともなれば大きな波になる、高い時は5m近くを何回も見た。 この日の波は防波堤を越えていた、作品の波の所に行き 魚眼レンズで撮影した、レンズに波がかぶりレンズが使用不可になりました(1976年撮影)。


008 (73)    初冬 shiga Oumihachiman
琵琶湖では初冬になると各地で漬物の大根が良く干してあった。 近年は殆んど各家庭の軒下で見られる位、彦根の松原では 現在でも12月上旬頃見れる(1971年撮影)。


008 (74)    南浜A shiga Hikone
夕暮れストロボを使用、同じく漬物用です、ポプラの樹を利用していた。 ストロボ光が強すぎて露出オーバーになった。 当時ストロボの日中撮影は難しかった(1975年撮影)。


008 (75)    南浜B shiga Hikone
琵琶湖畔にポプラの樹が、1970年代は良く見かけました。 近年少なくなって、マキノの周辺でしか見られなくなっています。 彦根南浜も当時沢山見られ、 私は南浜が大好きでした、必ず立ち寄って見ますが・・・近年撮影する事が少なくなりました(1982年撮影)。


008 (76)    青の世界 shiga Hikone
タングステンを使わずブルーの色が綺麗に映る時もある。 時雨れる空模様で湖が荒れる寸前でした、こんな時PLフイルター無しで撮影出来る。 風景としては滅多に無いチャンスだった。雨天空から晴天に変化する時は私は好きです(1974年撮影)。


008 (77)    内湖 shiga Kusatsushi
私が琵琶湖をテーマにした初期の頃は周辺の湖の近くで内湖(池)が多数見られたが?・・・行く度に埋め立てられる・・・総合開発と相成って、多くの内湖が消えて行った。 この内湖も近年見れない(1973年撮影)。


008 (78)    琵琶湖大橋の夜 shiga Kusatsushi
開通は私が大阪に来た年と同じ1964年、橋の長さ上り1400m・下り1350m、琵琶湖の東西を行き来する時間の短縮、観光の促進を目的としている。 私が撮影に行った頃は途中に数台の駐車スペースがあったが!! 危険だったからでしょう無くなっています。 三脚使用、3秒〜10秒で数回撮影した(1976年撮影)。


008 (79)    琵琶湖大橋幻想 shiga Kusatsushi
日本カメラシリーズNo96(1992年)風景を写す(中型カメラ編)、編集長三上邦男氏、担当は浜松茂志さんだった。 テーマ琵琶湖 ペンタックス(6×7)使用、3ページ4点カラーで発表、その中の1点です、データでは午前7時撮影・レンズ90ミリ・F8・シャッター1/30、 撮影ガイドをしました。 関西からは山本健三・安岡幸治氏、私と3人、グラビアのトップは前田真三さんだった。 前田真三さんとは長い間、年賀状を交換した、二人でお茶を 飲んでいた時に私は冗談で私のテーマの琵琶湖は荒らさないでねと言った。前田さんの作品に滋賀県琵琶湖が少なかったので本気にされたのかと少し心配した(1981年撮影)。


008 (80)    湖北残照 shiga Onoue
ニコンカメラF2フォトミック・レンズ広角20ミリ・F16・シャッターオートで撮影。 ボディはカメラ毎日年度賞1975年氏名入りで頂いた。 大事に使ったが23年で・・・ 旅館紅鮎の横のあたりは漁が良かった頃です、?が沢山有りましたが・・・年数と共に消えて行きます(1978年撮影)。


008 (81)    暮れ行く竹生島 shiga Onoue
ギャラリー近江風土記は私の作品群の中でアマチュア時代からの古い作品ですので、どちらかと言うと色々分野が別れています。報道性のドキュメンタリーや、 記録を主にした作品が多くアート性は少ないので・・・この作品を間に入れました。 現在はこの横をさざなみ街道、湖周道路は土日には 車の往来で賑わっています(1980年ペンタックス6×7で撮影)。


008 (82)    黄昏時 shiga Hikone
夏の夕暮れの彦根でした。 アマチュア時代休日毎に琵琶湖へ1971年〜1977年頃迄、カメラ誌5社に毎月、月例コンテストに20点づつ100点を送付していました。 この作品は入選にはならなかったですが・・・好きな作品、姉弟が犬を連れて散歩していました(1974年撮影)。


008 (83)    民家の桜 shiga Takashimacho
海津の桜を撮影に行く途中、近くの民家の横に桜があり、時折撮影していたが・・・残念ながら・・・切られて無くなった。 自宅の庭の隅にあり私からすると 羨ましい限りだった(1986年ペンタックス6×7で撮影)。


008 (84)    ポプラと長命寺 shiga Oumihachimannshi
私はここのポプラの樹が大好きで良く撮影していました。左手の山は長命寺、永世年間(1504〜1521)に焼失している。西国33所(第31番札所) 天台宗、808段の石段があり、私は下で待っていたが、家族は上まで登り、下りで足に震えが来たと苦情を言われた思い出が・・・(1986年ペンタックス6×7で撮影)。


008 (85)    雨日 shiga Makino
マキノと云えばスキー場とメタセコイヤの樹群で有名、CMにも登場している。 撮影から26年経て樹も大きく成長している(1986年ペンタックス6×7で撮影)。


008 (86)    朝陽 shiga Oumihachimanshi
西の湖撮影中、朝陽の雲が良かったので撮影、冬の早朝でした。 秀影クラブを紹介してもらい琵琶湖を案内して頂いた。 先輩西嶋保介氏と同行、 西嶋さんはモノクロ90%・カラー10%の比率で撮影。 クラブでは常にトップでした、年度賞の連続、私はその反対でカラースライド90%・モノクロ10%でした。 カラーは私が年度賞、モノクの成績はあまり良くありませんでしたがミノルタロッコールクラブ(1976年)年度賞2位でした。八尾市の高橋弘氏と良く争っていました、他に 京都の林忠廣さん大阪光芸クラブのベテランが多数参加していました(1974年撮影)。


008 (87)    山影 shiga Nishiasaicho
休日、風の強い日はウインドサーフィンをしている、また土門拳氏の撮影した?(エリ)もあって隠れた私の穴場です。 11月の初旬、秋の訪れが近い日でした、静かな湖面です(1979年撮影)。


008 (88)    静寂中 shiga Kusatsu
草津市の内湖です、静かに夕暮れを迎えて暗く1日が終わる、陽が沈んでから1時間は待っていた。 内湖も少なくなっている、原因は第二次大戦の末期から 食糧増産の為、干拓が強行された。 食糧不足、外地より引揚者を受入れ、八幡の大中ノ湖干拓事業は国営事業だった(琵琶湖逍遥写真集に発表・1974年撮影)。


008 (89)    琵琶湖渇水 shiga Onoue
私が琵琶湖をテーマにしてから数年後に赤潮が発生(1977年)。 今津養魚場で一万匹の稚アユが死んだと新聞で見た。 琵琶湖の渇水も何回か経験 1977年マイナス58センチでした、竹生島に100m程歩いて近づけました(1977年撮影)。


008 (90)    竹生島と渇水 shiga Onoue
翌年の1978年はマイナス78センチでした。 杭には常に何かの鳥が休むのを私は何時も見ていました。 1978年ニコンサロンで細江英公大先生が 琵琶湖は鳥も多いね!!と云ってくださった思い出が残っています(1978年撮影)。


008 (91)    湖上の鳥と船 shiga Kosei
渡り鳥は雁(ガン)だと、学研秋の魚に編集長の白木靖美氏が本に書いている。 北海道の写真家志賀芳彦さんの名作写真集も 担当された方、1978年白い太陽(学研)は名作でした、この作品集は日本写真家協会年度賞受賞。志賀さんはダイコロの愛別飛行場の場長もされていた、私も 数回、大雪山の冬と秋・紋別の流氷を上空から撮影した、良き思い出になりました(1978年撮影)。


008 (92)    網干し shiga Kohoku
湖北の夏、青色の良い天気でした。 琵琶湖に住む魚60種類程らしい?学研夏の魚に書いています。 近年網干は殆んど見られない。 湖岸の琵琶湖らしさも失われている。編集長の白木さんは私の作品集を創りたかったと悔やんでいました、然し写真集は高価の8000円を予定 そう簡単に買う人は少ないと思う? 私の周辺にいる写真愛好家でも写真集を買ったと云う話は滅多に出て来ない。 私の場合でも5000円以上の 写真集を約20冊、その他合わせて100冊前後購入しました。私の周囲では一番持っていると思う・・・朝日カルチャーで70冊、生徒さんにプレゼントした(1977年撮影)。


008 (93)    ツバメの群 shiga Kusatsushi
夏の宵、私の秘密の場所だった。 ツバメの大群が飛び回り、やがて葦の中に消えて行く、葦に入る前に鳥の儀式なのでしょうか?約10分程群れで飛び回る・・・ むく鳥も同じ様にします。 感動の嵐です、しかし私一人です。 草津市の湖岸が琵琶湖の中で葦が一番多いと思っています。 当時道路が無く、 田園の農道だけでした、車一台がやっとです。 農家の人も夕暮れは居なく・・・全く私一人でした、絶対に他の人が撮れない作品を持っています。 現在はこの葦の上にさざなみ街道が出来て、琵琶湖の中で最も私の大事な所を失いました、その時は悔しくて仕方無かった(1976年撮影)。


008 (94)    整地の冬 shiga Takatsukichou
ヤンマーディーゼルの創業者山岡孫吉氏が、その出身地の高月町東阿閉(アツジ)地区に寄贈した公民館です。 私は1971年が最初で、 まるで外国に行った気分でした。 ヨーロッパのゴシック建築に憧れたと聞きました。外装の色が変わり現在は更に美しさを増していますが・・・ 国の土地改良にて、滋賀県の田園は整地されている頃です(1985年撮影)。


008 (95)    知内漁港 shiga Chinaihama
知内浜にユリカモメや白鷺が何時から来ていたのかは?正確には知らないが?写真界で発表したのは私のグループが最初だと思っている。 写友森さんと写団寝屋川の荒平君が最初だと思う、私も直ぐ確認しに行った、白鷺の乱舞だった。 他に私に個人的指導を受けているグループも 順に連れて案内、全員がコンテストに入選した、その後、千里よみうり文化センターの生徒さん、川上さんの元弟子斎藤一馬さんも最初の方だった。 僅か2〜3年で大勢のカメラマンが押しかけて来た(1983年撮影)。


008 (96)    白鷺 shiga Chinai
知内浜に来る白鷺はコサギ・チュウサギのみでダイサギは来ない。 餌につられてレンズの前まで、魚眼レンズだから1m以内です、私は10年前 朝日カルチャー中之島の生徒さんを実習で連れて行きましたが・・・その時は10羽以内と少なかった。 翌年も行ったがその時は1羽もいなかった。 琵琶湖を通過する時は必ず立寄って見たが白鷺を見る事は無かった(1996年撮影)。


008 (97)    幽霊ビル爆破 shiga Kinookacho
湖西道路161号線を走っていると湖岸側に古びた大きなビルがあった、倒産したビルだとは知っていた。 1984年週刊新潮から私の作品をグラビアに採用したいと 申し出がありました。ただしレイクサイドビルを取材して撮影して下さいとの電話があった。 滋賀県で風景条例ふるさと滋賀の風景を守り育てる条例=1984年新聞で発表された。 週刊誌はその故郷の滋賀にふさわしく無いビルがあるではないか?と云う皮肉にも取れる取材でした。 私はモノクロで遠くから琵琶湖を入れて撮影、紙面に大きく使われました。 その取材後に木の岡レイクサイドビル通称幽霊ビルは爆破されました。 当時はTVの中継、大勢の野次馬が押しかけ賑わっていました。  私も生徒さんでボートを持っている方がいて乗せてもらい湖上から撮影、木の岡町は現在公園になっています(1992年 5月22日撮影)。


008 (98)    風車村 shiga Takashimashi
風車村が完成したのは1988年前後だったと思う、琵琶湖総合開発事業で風車村街道と地元の人より聞く、私が琵琶湖に足を踏み入れた頃、 とても行ける場所で無くまるでジャングル地帯でした。 数軒リゾート地として売り出していましたが、誰も買い手がが無く荒れ放題でした。 足の踏み場も無く何回もチャレンジしましたが失敗しました。 その後、風車村街道は開通し綺麗になりました。  その頃、生徒さんで三坂康一さんを良く連れて撮影に行きました(1989年撮影)。


008 (99)    能登川水車 shiga Notogawacho
1992年4月に完成した、近江八幡、西の湖から安土と私は周辺隈無くを撮影している内に偶然出会ったのが能登川の水車です。 カヌーランド能登川とも言います、観光事業で造られたと思います、私は必ず近江八幡方面の撮影の折は立ち寄っています(1995年撮影)。


008 (100)    夕焼けの大観覧車 shiga Katata
比叡山と堅田方面の夜景です。対岸の守山市より撮影、日没後30分過ぎた頃だった。 湖周道路は未完成、琵琶湖大橋ゴルフ場・ KBS(琵琶湖プラザ)ビル・佐川球場の前当たりだった。 なぎさ街道は山賀町で行き止りで、当時、びわこ大橋観光デパートさくらの 駐車場が有り、良く休憩しました、右の大観覧車はびわこタワー イーゴス1008現在はベトナムに移された。その跡地にはスーパーや家電量販店になっている。 私は一人で撮影に行く時に朝陽の前、良く仮眠をしていた、現在その頃の広々とした駐車場は無くなり最近、立ち寄る事も無くなった(1989年撮影)。

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