? 物語のとき 1  琵琶湖の写真家マツシマススム




物語のとき 1



※作品は左から右に並べて展示しておりますので、
画面左下のグレーのスクロールバーをクリックしたまま
右にスライドさせてご覧ください。



         


001 (1)    堅田漁港 siga
写真クラブの先輩「西嶋保介」氏に初めて、琵琶湖を案内して頂いた、1964年湖北から余呉湖だった。
琵琶湖総合開発事業(国)で、現在は綺麗な漁港に生まれ変わっている。
1991年にフォトコン5月号で発表(1965年頃撮影) 琵琶湖の自然


001 (2)    永源寺ダム siga
ダムが完成したのは1972年、私が撮影に出かけた頃で水位が不足したら湖の中から家が見えた。
高さは73.5m関西電力による発電と聞く(1975年頃)。


001 (3)    ダム干上る siga
滋賀県をグルグル回る中、年に2〜3度永源寺ダムに立ち寄る、
この日は干ばつがひどくダム内の水量もひどい年であった(1974年頃)。


001 (4)    ヤマゼンの社内報 siga
写真学校卒業後プロカメラマンを目標に、少しでも作品が世の中に生きる様努力していた時代、
他に太陽酸素や松下(現パナソニック)の表紙に採用された(1973年頃〜1977年)。


001 (5)    汚染 siga
私が写真に憧れていた時代、写真家のスターは土門拳さん「リアリズム運動」の先駆者だった。
フォトコンテスト・フォトアート・カメラ芸術・サンケイカメラ・アサヒカメラ・日本カメラ・カメラ毎日と
写真雑誌で世の中写真ブーム、その中ドキュメンタリーの報道写真が人気で、
私もリアリズムに・・・憧れて琵琶湖の水の汚染問題を考えていた、(1973年頃)すでにテーマにしていた。


001 (6)    富栄養化進む siga
湖にリン・窒素等の栄養塩類が増加することを云う。1977年に赤潮が発生したと新聞で知り、私は直ぐ追いかけた、
湖のいたる所で魚の死骸を見た。また水の臭いを異常に感じ・・・間違いなく琵琶湖の自然は失われて行くのを実感。
この作品と合わせてワイルドライフ1984年3月号で「病む日本の水系・琵琶湖にその象徴を見た」と云う特集号に
大きく採用された(1975年頃)。


001 (7)    早い朝 siga
冬の早朝、堅田の古い町で撮影、
ストロボを使用「ミノルタロッコール」クラブで関西一賞受賞(審査員・立木義浩氏)
1976年カラーで年度賞1位、モノクロは2位とアマチュアとして大活躍していた時代。


001 (8)    西ノ湖 siga
琵琶湖の中でも好きな被写体地、私の中でベスト3だった。
毎年10回〜20回は近江八幡に行く、西ノ湖の葦は日本一で美しい。
当時 橋があったが現在はこのアングルからの撮影は不可能・・・長い間テーマにしていると色々ある。


001 (9)    白鷺(竹生島) siga
琵琶湖に撮影に行くと必ず白鷺に出会う、野生だけにすぐ逃げられて失敗ばかり、その内だんだん知識が出て、
車から出ない・こちらを見ていない時に近ずく・・・白鷺の敵ではない事を相手に知らせる、すなわち私は対決と呼んでいる。


001 (10)    浮御堂とユリカモメ siga
浮御堂は近江八景の一つ、「堅田の落雁」の地、
また芭蕉の句も、プロになって近江八景松尾芭蕉の取材に何回か訪れ、
湖上の風景として誰でも撮影して見たいもの(1973年頃撮影)


001 (11)    竹生島と水位 siga
琵琶湖で最も被写体になるのは、やはり竹生島だと思う。
私も初めての撮影は湖北と余呉湖だった、水位が下がり杭が出て来た?今では珍しい写真です(1978年頃撮影)


001 (12)    残月(比叡山) siga
アマチュア時代、月例に夢中になっていた。カメラ雑誌に毎月各10点、5社に送っていた。
この作品は「フォトコン」秋山庄太郎の審査で推薦・最高賞になった。カメラ誌を見て師匠の青木君夫先生(二科会会員)が
何で二科展に出品しなかったか!!と云われたが・・・当時は分らなかった(今は経験52年)。


001 (13)    湖西線 siga
湖西線が開通したのは1974年(昭和49年)だった、私鉄の江若鉄道で真野浜に海水浴に思いでが・・・
作品は高島市(乙女が池)、湖西線と琵琶湖である(1976年頃撮影)。


001 (14)    私の愛の日記より(3枚組のA) siga
写真学校は当時花盛り1500名を数えプロ写真家は花形、私も夢を見ながら何時か?
私もと心に決め、密かにあらゆる手段を考えていた、APA展は大人気だった。


001 (15)    私の愛の日記より(3枚組のB) siga
私は当時アマチュアで仕事はカラー現像所(ラボ)に勤務、技術者として働いていた。
部下の女の子に頼み、モデルになってもらい、私が勝手に作ったストーリーを1日で撮影を終えた。
?二人は仲好く ?決別 ?死と云うストーリー(1975年)。


001 (16)    私の愛の日記より(3枚組のC) siga
日本のプロ写真家の協会が2社あり、日本広告写真家協会をAPAと云った。
写真展がそごう百貨店で毎年開かれ大変賑やかで・・・当時プロカメラマンに憧れる若者は人気上位だった、
私もその中の一人、初応募・・3枚組で入選(1975年)。


001 (17)    私だけの夜 siga
APA展2年連続入選、テーマは(告白的女)(色)テーマはアマチュアに取って簡単ではない?
写真とテーマが合わないと作品の評価は分かれる、APA会長は秋山庄太郎氏「そごう」で表彰式、
秋山会長から賞状を受け取りながら・・・プロへ憧れは一段と強くなった(1976年)。


001 (18)    桜と竹生島 siga
プロになれば色々な所から注文が来る事を予測、湖北の名所、海津大崎の崖を登ってハイアングルから撮影。
若いから出来たが?今では恐ろしい・・・(1973年頃撮影)


001 (19)    追いサデ漁 siga
早春の風物詩、コアユの群をカラスの羽根のついた竿(ワザオ)を使って追い集める漁法、湖北で良く見かける。
近年漁師さんはあまり捕れないと嘆いています、
私が当時「写団寝屋川」を主催、寝屋川市のアマチュアを集めてクラブを作っていた、
そのクラブ員の中に中山健二君(大阪芸大卒)朝日新聞、日刊スポーツに入社、広告部員に
私の作品をスポーツ紙に採用して頂いた、しかしそのクラブは20年で終止した。


001 (20)    巨大な物件 siga
私は相変わらず琵琶湖畔を被写体を探して歩いていたら、巨大なビルに遭遇、映画のロケ現場だった。
五社英雄の「肉体の門」だった、夕暮れ誰も居なくなって自分で光の光の演出、
私も映画を拝見、かたせ梨乃・西川峰子・名取裕子その後 全員のファンになった。


001 (21)    琵琶湖総合開発 siga
私が琵琶湖をテーマにした「1973年(昭和48年〜平成4年)1992年」20年間だった。
浮御堂は約10mほど湖側に移動した、完成したのは1982年、
私の撮影が琵琶湖のテーマと開発事業が重なったのは幸運だったと思っている。


001 (22)    シルエット siga
竹生島の朝(AM4:30頃)。写友の森成雄氏となぜかウマが合って、琵琶湖に良く出かけた、
西嶋氏とは1964〜1976、森氏とは1972〜1982、森さんと相性が良いのはお互い鳥が好きだからだと思う、
大衆風呂を営業していたので営業が終わって真夜中1時半に迎えに来た。
琵琶湖の日の出を約10年撮影出来たので随分助かったと思っている。
竹生島に行くのに船をチャーターした、往復の船代15000円だった勿論、割勘です。
先に森さんが登って大木にロープを掛け伝って登る、カメラ・三脚・レンズは500〜1000mm、重労働だった、
早朝4時に竹生島へ、迎えはPM2:00頃だった。尾上港の松岡さんの父現在は息子さんと・・・親子2代に渡る。


001 (23)    第15回(平凡社) 太陽賞 siga
1978年太陽賞に応募、4切130枚制作、何日も悩み30枚のドキュメンタリーにして応募、当時1枚当りの制作費
(4×5インターネガ、キャビネ、4切プリント)7000円相当、制作費98万円、賞金は50万円、私は人生の賭けだった。
8年間の作品を集め(琵琶湖私景冬から冬)編集長の海野弘(作家)から電話が入った、
表彰式の前、平凡社に立寄ったら次の編集長の紹介を受けた、その人は「嵐山光三郎」氏(作家だった)。
夏の終りひまわり、この作品で評論家の伊奈信男氏が決定に呼び寄せたと!!


001 (24)    復活 siga
APA会員プロになってAPA展に出品、復活キリストのイメージでそのタイトルにした。
死んだ人が生き返ると云うイメージだ(入選1980年)。


001 (25)    青の世界 siga
太陽賞受賞後、京都の作家 荒井保男氏と久しくなった、2人で琵琶湖へ私は青でプロになったので・・・その後も青色を強調していた。
荒井さんは写真評論家の田中雅男氏にわざわざ手紙を送っていた、東京ニコンサロンで個展をしていた時、
須田一政氏(有名なプロ)を連れて来て紹介して頂いた、その時はお茶しながら荒井さんから手紙が来たから私に会いに来たと言う。
嬉しくて田中さんは私の好きな作家の一人「濱屋浩」さんの兄だからだった、
日本カメラ社を紹介して頂いた、三上邦男編集長にハガキを送れと言って頂いた。


001 (26)    開発で出来た漁港 siga
「フォトコン」の河野真進編集長は30〜40点の中からこの作品を選びました。
琵琶湖が開発され荒れて行く、自然が消える、そんなイメージだったのでは!!
編集長ありがとう・・・(日本写真企画 当時の編集長)


001 (27)    ベストセブン賞 siga
私はカメラ毎日’75の年度賞作家’アルバムのページに作品を送っても掲載してもらえず困っていた、
そんな折、全国から虹の写真募集があった。余呉湖の早朝「太陽に息をかけ」私のオハコの作品を送ったら、
みごと「黄色賞」としてセブンに選ばれた、この作品もその後ニコンサロン「湖北冬日記」個展のハガキに使用した。


001 (28)    JPS金賞 siga
1978年太陽賞でAPAに先に入会してプロになった。
次はいよいよJPSに入会しようとした矢先、大阪の大先輩・高田誠三・川上緑桜氏がJPS落選した、
私はびっくりした。二人が落選なら当然私だってありえる、そんな思いが頭をえぐり、1981年1月寒波を待ち湖北に一泊二日の旅に出た。
早朝 松岡さんの船に乗り「湖北冬日記」4枚組で勝負した。
JPS会員、望月剛さんから電話で金賞と知らされ再び人生の喜びを味わった。
益々プロ写真家として恥のない写真人生を送ろうと誓う。(1981年撮影)作品はプロフイルに有ります。


001 (29)    幻想 siga
1981年 琵琶湖彫刻展が開催された、期間をかなり取材色々と作品が生まれたが元は作者個人の作品、
そのまま使用しても自分のものにならない、飛行機雲と大津の唐橋の欄干を合成した。
現在デジタル時代、合成も簡単で誰でも出来る時代、私の時代アナログフイルム、日本で合成技術100人もいなかったかも!!
天下の植田正治さんも岩宮武二さんも1976年頃知らなかった(教えてと私に言った)。


001 (30)    夜 siga
1981年、日が沈み暗くなった頃ひまわりを自参ストロボで作画した。
作者は色々と頭の中に計算したり、考えたりアイデアも時に必要です。


001 (31)    整列 siga
1960年〜70年代かなり漁もあったと思う、
この様な風景はたびたび琵琶湖で見かけたが?・・近年サッパリ見なくなった。
学研の本に採用された「魚の歳時記」。


001 (32)    竹生島の鷺
1984年、滋賀県で「世界湖沼会議」が行われると1982年頃発表された。世界に発信する大会議で世界でも初めてだった、学研の白木端美氏からアプローチ、琵琶湖を長年撮り続けている私に注目したのである、白木さんは名物編集者で多くの作家の写真集を手掛けた。この会議に合わせて発刊する予定で、何度も私の所に通って来られ最終迄来た、販売価格は8000円だった。営業の大阪支店長が売れないと反対され中止に・・・白木さんは私の作品を学研発行誌の中で鳥・湖・漁の本の中で色々と採用して頂き感謝でいっぱい、万が一出版されていたらもう少し売れる作家になっていたかも?残念!!


001 (33)    白鷺 siga
学研の白木氏が来て写真作品の中に白鷺が沢山ある事を知り、当時奥様の加藤幸子さんは野鳥に強い作家、
彼女の本の中にいくつか使用して頂いた(1974年撮影 竹生島)「鳥よはばたけ」他


001 (34)    週刊新潮 siga
東京コダックフォトサロンで個展、1984年「琵琶湖風景条例写真展」
滋賀県は(ふるさとの滋賀の風景を守り育てる条例)を施行。
1984年(昭和59年)ニュースを知った私は作品は山ほど有り直ぐ実行、コダックに個展を申込んだ、
当時コダック社から絶大なる作家として私は重宝されていた。写真展や撮影会の講師は主に私が選ばれていた。
週刊誌もこの企画にグラビアモノクロで5ページ、週刊誌は後にも先にも初めてだった。
写真展の大阪会場ではNHKニュース6:30、当時大阪の有名なアナウンサー佐藤誠さんが取材に・・・長く放送して頂いた。


001 (35)    近江冨士 siga
同じく週刊誌にびわことヨット、近江富士、まさしくふるさとのイメージ
週刊誌は1984年に・・・(1979年撮影 大津にて)


001 (36)    グリーンパワー siga
朝日新聞 森林文化協会発行。東京の写真ライブラリーで有名な「キューフォトインターナショナル」の安村さんから
電話で琵琶湖の作品、主に白鷺と云う事で送った。
二羽の白鷺の舞は素晴らしいと大きくトビラに使用・・また写真と文も・・文は苦手だ!!


001 (37)    白鷺の雛 siga
竹生島の撮影は1972年〜1982年 約10年続いた。
72〜76迄は足元に雛を親鳥が抱えて全く人に荒らされていなかった、
この作品は僅か10cm〜20cmに近付いたもの・・・
しかし毎年行く度に雛づくりは遠のく、4〜5年後は30cm〜50cmと・・・
鳥たちもマスコミ・カメラマンは迷惑です。


001 (38)    竹生島の白鷺 siga
ワイルドライフ1984・6月号で「白の舞い、竹生島の白鷺たち」が特集された。
6ページ、文と写真であった、文に関してだが、ハッキリ言ってあまり経験が無く有りのまま書いた。
命がけの撮影開始から始まった、次に厳しい冬をのりこえて変わりゆくシラサギの島3ツを要点に書き、
そこそこ上手く書けた。太陽賞受賞で原稿の依頼が・・・太陽賞とはすごいものでした(1972〜1982撮影)。


001 (39)    白鷺の着陸 siga
竹生島に名物の樹の枝がありました、この名物枝に白鷺は良く止まり休むのです、
またこの枝で休む姿は白鷺の白(ホワイト)が一段と輝きを見せます、背景は湖だから無駄な物は写りません 絶好の被写体でしたが枝が或る日突然消えていたのです、びっくりして調べると、大阪の大きい写真クラブ員と大先生がこの枝をノコギリで切ったと聞き再度の驚きでした、理由は他の人に作品を撮らせない為だったと・・・悲しい、モラルもあったものではない。(枝を切った人を知っていますが現在写真もやめています)


001 (40)    優美な白鷺 siga
白鷺では大・中・小の3種類、中でもこの作品が大鷺で最も美しい、
白鷺の名人、先輩の川上緑桜氏は大鷺が大好きで、絶対に青鷺は撮らないと日頃言っていた、
分る気がするが私は鳥の種類に関係なく何でもOK、
1973年一匹だけ竹生島に表れた鵜を一生懸命撮影したのを覚えている、この作品(1984年ワイルドライフに発表)。


001 (41)    朝 siga
1984年 日本カメラシリーズ53(風景表現のテクニック)で三上編集長から・・・
たぶん田中雅夫さんがマツシマの琵琶湖は面白いよ、と云ったからであろう!!
良く使用された。早朝車のライトを使用(撮影は1972年)湖北幻影の2ページ、
日本カメラは前田真三・浅野喜市・堀内初太郎・岩宮武二・近藤龍夫、主に二科展の作家(グラビア)が多かった。


001 (42)    L&G siga
L&Gとはレディース&ジェントルマン、新幹線のグリーン車内に置く(ご自由にお持ち帰り下さい)人気の車内雑誌だった。
1993,8琵琶湖望見「湖西の旅」の特集でした、
11作品と別に4作品琵琶湖「白鷺の舞」を特集してまさにマツシマワールド・大変嬉しかった。


001 (43)    ポスター siga
滋賀県は国体に合わせて滋賀のイメージを高めようと、日本で有名なグラフィックデザイナー粟津潔氏を的にして企画が始まった、
粟津先生は日本で10の中に入るデザイナー、万国博企業のデザイン・国際的にも知られる有名人、
当時京都芸短大の教授として京都に時折来ていた。
先生の教室に1500点、色々な琵琶湖作品持参、先生は昼からビールを飲んでいた、まさに大物、
僅か10〜15分で私の作品4点選ばれビックリ・・・はたしてそれで!!と云う印象だった。
先生に白鷺が重なっていますと私が云うと「それが良いのだよ」と先生は言った(後日この作品は大作となった)


001 (44)    ポスター siga
白鷺の乱舞を先生は選び・・・この作品は私も好きで迫力もあって中々のものと自画自賛していた。
全国の主要駅で大きいポスターとなって、評判を呼んだでしょう、週刊誌で話題になりました。
グラフィック年鑑に収載、益々注目された。先生に感謝。周囲の写真は久谷政樹先生が選ばれました。


001 (45)    ポスター siga
粟津潔先生は1955・日宣美賞を受賞、大阪万博テーマ館構想計画、他 映画の美術監督
デザインに知識の無い私でも名前は知っていた。
湖上に光る一本の線にヨットが・・・そんなに良いとは思わなかった・・・ポスターが出来上ると
手前の湖が紫色のトーンになっていた、先生は紫色が好きだと後で聞いた。
ポスター展で入選、周囲の40点 久谷先生が選んだ。


001 (46)    竹生落陽 siga
この日は夕陽が素晴らしく良かった、雲もオレンジ色また手前の船も琵琶湖のイメージにピッタリ、
日本カメラシリーズ68号(風景撮影入門)に採用、同じグラビアに薗田澄・木下陽一・森永純・水越武ほか有名人がいっぱい。


001 (47)    気球大会 siga
高島市にて秋、関西気球連盟の気球大会がある、スナップ撮影、フォトコンで採用された。
1984世界湖沼会議ポスターもここ高島市で撮影、子供が気球に乗り世界へ・・・
夢と希望のイメージだった。


001 (48)    竹生島残光 siga
1985年「グラフィック社」から日本の写真家アーチスト320名に寄るフォトグラファーインデックスを作りたいと・・・
2点出品、竹生島残光と鳥・青の残光を出品、
青い方は当時テープレコーダーで有名な赤井電機のCMになり、海外では商品を入れる袋のカバーにもなった。
私も当時は色々と広告の世界でも活躍していた。


001 (49)    ダイワハウス siga
山本めい子デザイナーから今度、滋賀県長浜市にオープンする、大和ハウスのホテルのパンフレットに
作品を使用したいと連絡があり、私の所から数十点選ばれました。
太陽の中の白鷺(シルエット)やはりドラマチックだと思う(1976年撮影)
(AGRAD STAGE・・・ダイワ ロイヤル ホテルズ) 素晴らしいパンフレットだった。


001 (50)    広告 siga
同じ山本めい子デザイナーによる、同じくダイワハウスの雑誌広告、
鳥たちを人間に例え、家族は皆仲良く平和に!!ではなかろうか・・・
住まいの設計3月号1988・ダイワハウス(ルグラン・ソフィエ)の広告、山本さんありがとう。

ギャラリートップへ戻る