? マザーレイク 3  琵琶湖の写真家マツシマススム  Mother Lake 3 (Lake Biwa)




マザーレイク 3



※作品は左から右に並べて展示しておりますので、
画面左下のグレーのスクロールバーをクリックしたまま
右にスライドさせてご覧ください。



         


005 (101)    彼岸の頃 shiga takashimashi
彼岸花の撮影も毎年どこかで撮影、その時々で思うままの撮影です、うまい事川の流れがあった。
昆虫も止まりチャンスだったが?水飛沫でレンズが濡れた(1972年撮影)。


005 (102)    竹生島慕情 shiga kaizu-osaki
NHKTV「朝いち」で紹介された、この作品と他4〜5点紹介して頂き話題に!! TVも過去10回以上紹介されたが、また出演経験も多数・・・お喋りが下手だった、(BBCびわこ放送)ではゲストで2時間も出て発言は殆ど無し。ゲストのイーデス・ハンソンさんは心得て話し方は上手だったのを覚えている、司会は(バンチャン)馬場章夫さん馬場章夫さんとは毎日放送の音楽担当の森本さん(枚方)を通じて30年以上の知り合い、「琵琶湖逍遥」写真集では序文を書いて頂きました。現在千里でネットラジオを開設されている(1966年撮影・マミヤ6×6使用)。


005 (103)    気球大会 shiga takashimashi
1984年滋賀県で「世界湖沼会議」が行われた。世界のそれぞれの湖を持っている悩める国々が参加して、
湖のあらゆる」問題に対して考えると云う大会議だった。 当時の知事は「武村正義氏」、滋賀県が大発展する頃の知事
(琵琶湖総合開発)も合わせて大人気の知事。 私の作品で「世界湖沼会議」のポスターも採用されたのも気球大会だった。
作品は手前の子供が手を振り世界へ羽ばたくと云うイメージ。マザーレイクのギャラリーの最後にポスター作品がありますので
見てください(1977年撮影)。


005 (104)    萩の浜 shiga takashimashi
毎年秋になれば「関西学生気球大会」がある。高島市から近江八幡だった。 見ての通りカメラマンも数少なく
多分地元の新聞社ではなかったか?それ程知られていなかった。 現在はネットの時代、情報が早くなって
便利になっている(1973年撮影)。


005 (105)    水郷めぐり shiga omihachiman
私も何回か乗船した、TVのロケでも・・・どちらかと云うと船からでなく外からの方が私は好きです。遊びだけなら乗りますが!!
円山の水郷巡りの辺りが私のホームグランド・・・(1986年撮影)。


005 (106)    秋の西の湖 shiga omihachiman
毎年同じ所をグルグル廻り、特別いい写真が出来る訳でなく・・・季節ごと琵琶湖を廻っている。 後方の山は安土山で
安土城があった所、この湖を通り秀吉や信長も安土城に入ったかも!!信長の時代(1990年撮影)。


005 (107)    白鷺 shiga maibarashi
川に大サギを見た、手前のススキを利用し「前ボケ効果」を出し「ファンタジック」に考えました。
周辺を暗く(アンダー補正マイナス1) 上手く行きました勝利(1989年撮影)。


005 (108)    日の出の頃 shiga nagahamashi
伊吹山の日の出を湖岸から撮影、場所は湖北南浜、この作品を撮るのに自宅を早朝3時に出発、若さゆえ当時嬉しさと希望で
溢れていたが70才を超えると、その時間に出発することさえ苦痛に感じるこの頃(1969年撮影)。


005 (109)    朝もや shiga imazu
相変わらず自宅を真夜中1時に出発、途中食事したり必ずコーヒーを飲み、今津・マキノあたりで朝を迎える。
日の出の撮影が間に合いました、冬場は朝露が立ち作品の様に湖の上に霧が立ち、
良い作品に出合いました(1979年撮影)。


005 (110)    雲間の竹生島 shiga takashimashi
今津・マキノあたりから撮影、竹生島の上に雲が蔽い又何時もと違った作品になった。撮影ガイドを日本カメラ・
フォトコンテスト別冊に良く記事を書いた(1978年撮影)。


005 (111)    漁 shiga makino
この様な作品は他県の方は「宿泊」しなければ撮れない。 なお私の場合夜、徹夜しながらの撮影でした。
写友「森成雄」さんがいた事で慣れた事です、早朝のリズムを作ると良いかも!! 2000年位迄、早朝の撮影でしたが、
55才になった頃から早朝の撮影は年に数回と変わりました(1973年撮影)。


005 (112)    エリ漁へ shiga makino
マキノは現在の高島市、作品はエリ漁の仕掛けに向かう所、チャンスだった。 近年魚が獲れなくなっているので、
この様な場面を見るのも少なくなった(1973年撮影)。


005 (113)    秋空 shiga kosei
秋雲とコスモスだった、近江富士が遠景にあり私の得意の3点セット。湖風が心よい・・・爽やか・・・気持ちが晴れる。
個展(過去47回開催)の中に使用した(1983年撮影)。


005 (114)    初冬 shiga hikone
大津から時々、湖東から湖北に向かう時に違った被写体に出会う、大根(カブ)が干してあった。
1960〜1980年代迄は結構普通に何処でも見かけたが今では珍しくなった(1969年撮影)。


005 (115)    湖北 shiga onoue
琵琶湖の水位が1984年マイナス95cmだった。 湖北のエリの漁場が地面からむき出し、漁が出来なかった。
地元の考古学者で「小江慶雄氏」(元京都教育大学長)が尾上にお住まいになっていた。つづら尾崎の湖底遺跡を
研究されていた、私は手紙を出して写真集の折序文を書いて貰う様出してOKの返事を、また同じく
琵琶湖研究所長だった「吉良竜夫氏」にも手紙を出して二人からOKの返事を貰った、
実現しなかったが、何でもブチ当たる精神は持っていた(1984年撮影)。


005 (116)    沖ノ島遠望 shiga oumihachiman
琵琶湖の渇水も平成6年(2001年)からは問題になっていないと思う。この作品も渇水で風景が変化したものです、現在ではこの作品の上に水があり
撮りたくても撮れない写真です。 沖の島は(左)長命寺から船で15分、2〜3年に一度くらいづつ行く、琵琶湖私景発表(1969年撮影)。


005 (117)    湖上 shiga nagahama
私の中で琵琶湖の好きな地区は?湖北尾上 ?湖西マキノ ?近江八幡西の湖と昔から言っている。 漁船とカモの風景を望遠レンズで撮影、
2002年 マザーレイク写真展を「富士フォトサロン銀座」で開催した・・・(1969年撮影)。


005 (118)    小船 shiga takashimashi
小船にユリカモメが休んでいた、湖を廻って撮影していると良く出会う風景です。 望遠レンズ350ミリで撮影、1978年「太陽賞」受賞で
写真集は絶対に出すと決心していたが!!どうしたら本になるかは分かってない、写友「中村明巳」氏に紹介され京都シーグ社の
増田氏に紹介して頂き、1992年「琵琶湖私景」を出版、第三刷までなって写真集としてはヒット作になった。
中村明巳氏に感謝しています。中村さんがJPSに入会の折(1999年)私と藤本俊一先生(関西の重鎮)が保証人になりました(2002年撮影)。


005 (119)    夫婦漁 shiga imazu
エリの向こうで漁をしていた・夫婦で・・・よく見かける風景、エリの杭に白サギ一羽だが、露出は船の方に合わせた。
絞りは両方ピントが来る様にF22とした、1979年 中村吉之介先生は君の物量(撮影年数とフイルムの量)と
テーマの長さから写真集は早く出したらと云うアドバイスは頂いた(2001年撮影)。


005 (120)    昼下がり shiga kosei
車を運転しながら被写体を探す、視線は両方をくまなく動かす、至難の技である、長年経験すると他者は真似出来ないと
思っている。猫と白鷺を発見、猫が逃げない様努力した、中々チャンスがあっても!!こうは撮れない、それは
同じ光景を数回見たが!!失敗ばかり・・・(1998年撮影)。


005 (121)    漁へ shiga okubiwako
漁船が塩津浜へ進んでいた、山影で波が白く光った。 何気ない風景だけど写真展等に気休めの積りで展示している。
ニコンサロンで(1978年)三木淳先生(ニッコールクラブ会長)から私の作品を見て、良いのばかり飾ると疲れると
言われてから、ひと休みする作品を並べる様にしている(2004年撮影)。


005 (122)    湖上と鳥 shiga makino
マザーレイクのポスターを撮影して少し有名になったお陰で、ある日電話が入った。 マザーレイクの名前を使用している
民宿かペンションのオーナーからだった。 私がそのコピーフレーズ(マザーレイク)を使用したものと勘違いされたらしい!!
広告主(大広)のコピーライターがタイトルを考え、私の作品に文字を入れたのです。私が思うのですが・・・ポスターは
全国の各駅で飾られて、CMやらTVで一年間流れ、宣伝で知名度も高くなったのではないでしょうか!!(1967年撮影)。


005 (123)    雪の日 shiga takashimashi
白鷺たちはねぐらから早朝餌場にやって来る、冬朝6時前後だった。30羽から多い時は100羽来た、私は魚眼から500ミリを使用。
作品は雪がちらつく寒い日だった、ユリカモメやトンビも来て野鳥撮影のファンで賑っていた、京都の風景写真家「上杉満生」氏
私が知内浜の白鷺を撮影して5年程たってから2〜3年見かけた、その後彼は写真集を出版された。
彼は後発だけど写真集を出版した、写真集を出版すると全国の書店で発売されるので有名になる。写真集は強い(1983年撮影)。


005 (124)    水の汚れ shiga kusatsushi
1960年代から1980年代迄、琵琶湖の水は汚れていた。 水草が大量発生(コカナダモ)、悪臭を放つらしい!!
夕景だった(1977年撮影)。


005 (125)    水草除去 shiga onoue
滋賀県も水草の大量発生で除去に乗り出していた。 1960年〜1980年迄は見られなかったが!!
良い事だと思う(2005年撮影)。


005 (126)    ユリカモメ shiga kosei
ユリカモメは渡り鳥(全長40cm)カラスより小さめ、くちばしと足が赤い。 冬良く見かける、鴨川のユリカモメは夜になると
琵琶湖で休むとか!!(1996年撮影)。


005 (127)    休むユリカモメ shiga kosei
冬の琵琶湖周辺で良く見られる、杭の上で休んでいた。 近くに行っても逃げない、ただ10mまで近ずくと逃げる。
餌をやれば近ずく(1996年撮影)。


005 (128)    白鳥 shiga kohoku
渡り鳥、早い時は10月に飛来、年明けて2月〜3月に帰る、シベリアから渡って来る。 望遠レンズ350ミリで撮影、レンズが
長すぎるとフレームに入れるのが難しく!! デジカメの時代シャッターボタンさえ押せば、数打ちゃ当たる様になった。
フイルム時代は36枚撮りで終わり、この作品で20〜30枚のシャッターを切った。 現在はどうだろう・・・
1秒間に10枚〜13枚写る。 私の場合現在でもピント合わせはマニュアル(M)で手動(2001年撮影)。


005 (129)    仲間 shiga kohoku
私の場合、白鳥の撮影は湖北が多い、長浜市または湖西の高島市。 それほど白鳥に夢中になれない、それは
北海道で名作が沢山生まれて太刀打ち出来ないからである、白鷺だと日本の中で琵琶湖の被写体地は有数である(10番以内に入っている)
(1978年撮影)。


005 (130)    上空から shiga onouekou
大阪枚方にアルバムの印刷会社(ダイコロ)がある。セスナ機を一日チャターして琵琶湖を一周した、尾上港の旅館「紅鮎」と
水鳥野鳥センターを上空から、尾上港は琵琶湖で一番大きな港とか?。


005 (131)    上空から shiga hikone
川から流れる水は色が羽色で白い、琵琶湖の水が変わっているのが分る、水質検査をしないと!!
どれだけ汚れているか!!分らない


005 (132)    上空 shiga
セスナ機は八尾空港より出発した。 北海道では大雪山へ冬と秋に、冬 紋別では流氷を撮影。
鳥になった気分、良き思い出となっている(現在ダイコロのセスナ機は無い)。


005 (133)    貯水口 shiga nagahama
夏羽のユリカモメと白鷺が一羽、琵琶湖の貯水口の上で休んでいた、行く度に見ているが!!この様な状態は少ない。
「琵琶湖私景」写真集で発表(1974年撮影)。


005 (134)    白髭神社 shiga kosei
湖西161号線を北に進むと右手に湖中、鳥居が眼に入る。 長寿の「神猿田彦命」を祭る神社「比良大明神」共云われる。
安芸の宮島を思わせる、シャッターはスローで珍しく三脚を使用「琵琶湖私景」写真集で発表(1979年撮影)。


005 (135)    高時川 shiga nagahamashi
1978年「大島渚監督」の「愛の亡霊」のロケがあると聞き行って見た、その途中紅葉が美しく思わずシャッターを押した。
余呉湖の民宿「文ヱ門」にその時のロケ道具があるとマスターが言っていた(1978年撮影)。


005 (136)    冬荒れ shiga hikone
冬荒れの湖北、波が高く押し寄せていた。 伊吹山の雪帽子と雪の状態が良かった「琵琶湖逍遥」写真集で発表(1985年撮影)。


005 (137)    蜃気楼A shiga otsushi
冬の寒波時、温度差によって「蜃気楼」が琵琶湖に出る。 毎日出る訳でなく条件が整った時だと思う(1973年撮影)。


005 (138)    蜃気楼B shiga otsushi
1978年に太陽賞を受賞して「ニコンサロン銀座」で個展の時、写真家「細江英公」先生がお見えになって、
この作品の前で「琵琶湖に蜃気楼が出るの」!!と云う質問をされたのが40年経っても思い出される。細江先生は三島由紀夫(薔薇刑)と
(かまいたち)の写真集は組写真の教材として今もって人気がある(ニコンサロン発表・1973年撮影)。


005 (139)    台風 shiga kosei
1975年「写団寝屋川」の会員、長宗秀治さんと2人で琵琶湖へ撮影に・・・その日は台風直撃の日だった、車のドアも開かず、
車が左右に動き初めての恐ろしい体験だった。 屋根から瓦が飛ぶのも初めて見た、作品は何気なく見れば平凡かも知れないが!!
湖の所を見て頂くと分る、白いのは波しぶき歩けず、寝転んで撮影、怖い位だった(1975年撮影)。


005 (140)    釣り人 shiga takashimashi
冬の竹生島、昔(4〜50年前)レンズによってゴースト(光の幽霊)が出た、その光を利用して多重撮影した。
かなりのハイテクニックだがコンテストに入選する事は無かった(1976年撮影)。


005 (141)    カラス shiga omihachiman
雪の日近江八幡に行く、近年温暖化で中々雪に合うことも少なくなった。 私の好きな西の湖で枯木に泊る
カラスを撮影、写真展で発表した(1974年撮影)。


005 (142)    整列 shiga anegawa
「マイたうん友の会」私が主催している撮影ツアーです。日帰り撮影会も毎月実施、参加者が水のコンテストで「東京都知事賞」
を受賞した。杭の上にユリカモメの列、その後何度も通っているが!!この様な状態には中々遭遇しない
自費出版した「琵琶湖の自然パート1」オリジナルによるカラープリント、画集にして販売・・・価格は8万円、高すぎて売れたのは
一冊だけだった、この様な販売方法を考える作家は少ないと思う(1997年頃撮影)。


005 (143)    マザーレイクA shiga takashimashi
湖上に出来た雲間の光によって出来た現象です。黒い所が雲で遮り湖の明るい所は太陽が直下の光、昼間(日中)撮影です。
露出補正をマイナス補正(アンダー1〜2)で撮影した(1982年撮影)。


005 (144)    マザーレイクB shiga kosei
高い所から湖面と三上山(近江富士)を撮影した。フイルムは私の得意のタングステンタイプ(64T)使用(1986年撮影)。


005 (145)    琵琶湖漫遊 shiga for shizugatake
1990年、花博に類似作を発表(大阪府永久保存)になった。 1992年京阪百貨店で写真展、6200人の入場者だった。
会場のパンフレットにもなった、青色(ブルー)の世界。写真家「津田洋甫」氏が百貨店で写真展開催するのは一流と
褒めて頂いた、津田先生は京阪百貨店で私が個展をしたのを知って、ご自分の写真クラブ(浪華写真倶楽部・・・・明治37年創立、日本最古の写真倶楽部)
創立100年記念写真展をしたいと私に相談されました、私なりに京阪百貨店のアプローチの仕方をアドバイスしました。「太陽賞」と花博写真家43名と
京阪百貨店で写真展を開催した事で認めて頂きました、今はよき思い出として残っている(1976年撮影)


005 (146)    竹生島の朝 shiga kosei
朝日カルチャー写真教室で「琵琶湖を撮ろう」と云う企画で6年間、琵琶湖の周辺を撮影、初期の頃
「早朝の琵琶湖」の企画をし、宿泊して撮りましょう!! だったが申し込みは誰も無く仕方無しに一人で
民宿「吉平」に泊り早朝、知内浜から竹生島を撮影良い状態だった(2007年撮影)。


005 (147)    朝 shiga omihachiman
1964年〜1977年迄、先輩「西嶋保介」氏と月に一度、また2ケ月に一度の割に日帰りで主に琵琶湖方面が多かった。
西嶋氏は「大阪光芸クラブ・岩宮武二」「サンフォトクラブ・中森三弥」「青木先生のクラブ」「秀影クラブ」&キャノンクラブ大阪と
写真以外でも山歩きしていた。私も19才(1965年)の時、信州「白馬岳2880m」に同行、他に年2回は正月に能登へ、
夏は信州方面と色々案内して頂いた。私の中で?西嶋保介氏?森成雄氏、2人の写友に恵まれた事は私にとって
貴重な先輩として尊敬と感謝でいっぱいである、有難うございます(1965年撮影)。


005 (148)    竹生島 shiga kosei
「西嶋保介」氏は光芸クラブで勉強されていたので精細だった。 洋服のテーラー(注文服)をされていて服を洗濯すれば、
する程良くなると自信があると語っていた、また私も10着近く作ってもらった、大満足でした、有難う。
「森成雄」氏は鳥が得意、スナップや心象は殆ど無関心だったが二科展は6回連続入選した。私は5回だったので森さんに
一つ負けた。各教室の生徒さんに良い作品が出来たら、二科展・JPS展への出品を促している(2008年撮影)。


005 (149)    雲間のファンタジー shiga chinaihama
この時も私一人だった、雲の状態が良く中々この様な雲は少ないと思いながら!!同じ場所を何百回も行くと自然に作品の
基準は分ります。 風景(ネイチャー)は数多く通う事だ、努力すれば作品はおのずとついて来る、風景作家の人は何回も通う事です
2011年コダックから発行した私の写真集No.1「幻想琵琶湖」に収載されている、コダックフォトギャラリー(東京)で販売していた、
コダック社は経営に行き詰まった、現在でも細々と残っていると聞く。1987年 9月25日から30日まで東京のコニカ新宿で関西在住プロ作家
27人の写真展が行われた、入江泰吉・岩宮武二・棚橋紫水・津田洋甫・山本健三・高田誠三さんら一流の作家に肩を並べて頂き、
大変うれしかった(1986年撮影)。


005 (150)    ポスター shiga takashimashi
「人と湖の共存の道をさぐる」’84世界湖沼会議が滋賀で行われた(滋賀県知事・武村正義氏)、私が琵琶湖をテーマに52年通っているが・・・(2016現在)
この様な大きなイベントは他に無かったと思う。数年前から計画しての大会議だった、前年のプレ会議は当日私の写真展で(1984年)
40点を野州市民センターで展示会をした。ポスターの担当は滋賀県環境室の「江崎さん」だったと思う、環境室では色々な方々にお世話になりました。
滋賀県のイベントでポスターになった事は人生の中で、しかも琵琶湖をテーマで作画して本当に良かったと・・・悔いの無い事と思っています。

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