思い出 1


055 (1)    夕陽 大阪市旭区 Osaka Asahi-ku
大阪の写真学校入学の折、下宿先は大阪市旭区赤川町だった。 夏の日、淀川の夕暮れの撮影に・・・その時間帯は夕涼みに来ていたのか、通行人も多くホットドッグ屋さんの車もあった。 当時は現在と違って、ささやかな夕涼みに違いない、 大阪1年目の夏だった(1964年夏 ・ 撮影)。


055 (2)    橋杭岩 A 和歌山県 串本 Wakayama Prefecture Kushimoto
カメラ誌を見ると橋杭岩の風景をプロの方が発表していた。 私も行きたいと夜行列車に乗り、朝の明けない内から橋杭岩を撮影。 フイルムはコニカのスライド、アナログ当時国産ではさくら(小西六写真工業、現在のコニカ)の方が 富士より少し良かった様な思い出(1964年冬 ・ 撮影)。


055 (3)    橋杭岩 B 和歌山県 串本 Wakayama Prefecture Kushimoto
数年後、思い出の橋杭岩をツアーで行きました。 フイルムも富士のスライドアナログ、ISO100で撮影。 色も数段良くなりフイルムの進歩も1980年代は進んで来ていた。 関西の写真家、堀内初太郎氏は風景写真で素晴らしい作品を良く発表、 カメラ誌でも活躍されていた。 1976年JPS展が第1回公募の時、千里よみうり文化センターで岩宮武二先生が講演された時たまたま隣の席でした。 色々お話しを伺った思い出の中、橋杭岩が好きだともおっしゃっていた。 それから数年後、神戸の女流作家,柳原香さん(現在二科会会員)によると、橋杭岩の撮影会同行し撮影中倒れて?、私が思うのには写真人生で最高だと思う。 私も同じくシャッターを切りながら堀内先生と同様に天国に行きたい(1989年 ・ 撮影)。


055 (4)    高見山の冬 大阪府 河内長野 Osaka Prefecture Kawachinagano
西嶋保介氏が信州の夏山に行くと聞き、私も行きたくなりお願いした。 同級生の三尾多一(八尾市)さんと3人で行く事に決定、その前に登山経験の無い私に、練習として高見山を案内して頂きました。 途中、アイゼンを使用する急な  雪坂もあったが? 若さゆえそんなに大変とも思わなかった。 樹氷が美しかったが、私は田舎で長崎雲仙の樹氷を見ていたので感動は無かった(1965年冬 ・ 撮影)。


055 (5)    白馬岳へ 長野県 Nagano Prefecture
カメラは父に買ってもらった6×6のマミヤと35ミリの一眼レフ ・ 三脚 ・ お米 ・ 缶詰 ・ フイルム ・ 着替え合わせて13キロ〜15キロ背負い、いっぱしの登山家の格好で登山した。 途中、西嶋さんは休む時は座ったら駄目だと・・・ かなり苦しい登山、白馬大雪渓は忘れられない思い出です(1965年夏 ・ 撮影)。


055 (6)    北アルプス 長野県 Nagano Prefecture
登山の途中、光線は良く割と綺麗な風景写真が撮れた。 コンテストに出品したがお呼びではなく、山岳写真も大変難しいと実感した。 翌日、雲海を見てアルプスの素晴らしさは一生忘れられない。 白馬岳は2880mだったと思う、夜大勢の 人達でいっぱい、山小屋では就寝時に顔の前に人の足があったのも思い出です(1965年夏 ・ 撮影)。


055 (7)    葦 滋賀県 近江八幡市 Shiga Prefecture Omihachiman
西嶋保介氏とは私が18才〜32才、約14年余り弟の様に可愛がって頂いた。 昼の弁当まで奥さんが作ってくれていた、頼んだ訳でなく自然に出て来ていた。 私1人だけでなく他に写友の小西清さん、遠藤竹雄さんや他の人の分まで・・・ 今思うと大変な事をしてくれたのだと思って? 感謝の念に堪えない・・・その時は全く分らぬまま頂いていた(1997年冬 ・ 撮影)。


055 (8)    鴨を打つ 滋賀県 近江八幡市 Shiga Prefecture Omihachiman
早朝だった。 西嶋さんは5時頃に迎えに来たと思う、その当時は禁猟でなく結局、鉄砲撃ちを見て撮影していた。 1971年に禁猟区指定(1967年冬 ・ 撮影)。


055 (9)    日ノ出 滋賀県 長浜市 南浜 Shiga Prefecture Omihachiman Minami
湖北長浜迄2時間から3時間必要、暗がりから湖北長浜の南浜で早朝を待った。 赤いのはレンズの前にフイルターをした。 初期は白黒用のコントラストを付けるR1又はYA3のフイルターを常用していたので、 色彩を変えようとフイルターをしたが・・・人気は無く、どちらかと云えば笑われる存在だった(1967年冬 ・ 撮影)。


055 (10)    田植え 滋賀県 近江八幡市 Shiga Prefecture Omihachiman
田植えの頃、棚田の周辺を良く歩き回った、その中で清水町の円田(今のあらぎ島) ・ 丹後の新井の千枚田 ・ 滋賀県の棚田を撮影・・・その頃、機械は無く手作業だった。 初期から棚田も好きになった(1967年夏 ・ 撮影)。


055 (11)    夕照 滋賀県 守山市 Shiga Prefecture Moriyama
西嶋さんに良く琵琶湖を案内して頂いたので、私も1人の時も良く琵琶湖を撮影、日没後も湖畔を良く廻り、帰宅は22時から23時、若さゆえ平気だった。 何ひとつ苦にせず当たり前だった。 当時湖畔道路も無く、良く野鳥に出合った、 夏の渡り鳥ツバメの集団はいまだに忘れられない。 作品は秋の守山地区だった(1969年秋 ・ 撮影)。


055 (12)    万国博 A 大阪府 茨木市 千里 Osaka Prefecture Ibaraki Senri
大阪万国博覧会、1970年3月15日〜9月13日まで行われた。 アジア初の大阪府吹田市、大阪万博と云っていた。 私は既に結婚して長女がその年に生まれ、まだ赤ちゃんだったのに連れて行った思い出、いま考えると無茶したと思っている。 奥さんは写真店を寝屋川市日ノ出町で、第1号店を営業。 私は三和カラーラボで現像焼付けの技術者として働いていた(1970年 ・ 撮影)。


055 (13)    万国博 B 大阪府 茨木市 千里 Osaka Prefecture Ibaraki Senri
万博は私個人で6回、家族と1回、合わせて7回だった。 アナログフイルムも36EXで40〜50本出て来た。 既に40年以上の歳月が過ぎ色も劣化して悪くなっている。 DVDに10点ほど入れて処分する事にした。 会社が終ってから行ったので夜の撮影が多い。 三脚を使用した(1970年 ・ 撮影)。


055 (14)    湖畔の白鷺 A 滋賀県 Shiga Prefecture
琵琶湖の撮影に行くと必ずどこかで白鷺に出合った。 白い鳥だから直ぐ眼に付く、初期は遠すぎて小さく失敗ばかり、やっとサンレンズ210ミリを手に入れ何とか撮影したものの、ピントは甘くカメラブレが殆んどだった。 作品はまだ良い方でした(1970年 ・ 撮影)。


055 (15)    湖畔の白鷺 B 滋賀県 Shiga Prefecture
湖岸の白鷺を見つけて逃げられない様に注意しながらそっと撮影。 先輩の西嶋さんはあまり鳥には関心無かったので? 私1人の時や会社の後輩達と来た時に撮影(1971年冬 ・ 撮影)。


055 (16)    竹生島 A 滋賀県 長浜市 Shiga Prefecture Nagahama
1972年に鳥の専門家と云える、「森成雄」大先輩と出会った。 彼は大衆フロを営業、車は富士重工のスバルの新車 ・ カメラはペンタックス6×7一式、レンズは長い高価な種類を揃え、カメラはさらに35ミリカメラはニコン一式でレンズも私以上の 高価な品ばかり羨ましい限り・・・(1973年夏 ・ 撮影)。


055 (17)    竹生島 B 滋賀県 長浜市 Shiga Prefecture Nagahama
最初は鳥の名前さえ分からず、後日ゴイサギだと分った。 竹生島へは漁師さんの船をチャーターして竹生島に登る、それも暗がりの午前3時、夜中やっと明るく日の出前、頂上に登る様にしていた。 ただし先に森さんが登り木にロープをかけ、 私はロープを伝わって登る。 竹生島の裏山なので 道や獣道も無く、ブナの木の葉で20〜30センチの落葉を蹴りながらの登山、途中ヘビやムカデに出合う。 私はヘビが大嫌い、それでも鳥の撮影ではシャッターを押す度、感動でいっぱい。 凄い所に案内して頂いた森さんに感謝している。 船代は割り勘、7500円づつだったと思っている(1973年夏 ・ 撮影)。


055 (18)    岩田山 京都市 Kyoto City
アマチュア時代に京都の写真家達が良く入選していたのが岩田山の猿だった。 特に集団ひのきの植松正良氏の作品が眼に入った。 二科展やキャノンの上位迄、頭の中から離れなくなり、私も作品を取りたいと岩田山に2年程、時々登った。 カメラ毎日で3位が一番良かったが? 教室の皆さんには撮影に行く様に勧めた(1974年夏 ・ 撮影)。


055 (19)    森の中 奈良市 Nara City
奈良の鹿の名人、中村明己氏 現在JPS会員と知り合う以前の奈良の鹿です。 森の中、1人で撮影していました。 私は鹿の写真で数回入選して身近な被写体として、京都岩田山の猿と奈良の鹿は写真の題材として 皆さんにすすめている(1974年夏 ・ 撮影)。


055 (20)    幻想 兵庫県 加西市 hyogo Prefecture Kasai
西嶋保介氏と兵庫県加西市の五百羅漢に行き、それぞれテクニックを使ってあらゆる撮影をした。 ストロボ ・ 鏡 ・ フイルター、私は手持ちで絞り込みスローシャッターでストロボをシンクロした。 1983年にJPS展会員部門で この時の作品の中から良い方を出品し好評でした。 当時、五百羅漢は入場料も無く自由に撮影出来ましたが・・・数年後、京都 ・ 奈良共に入園料が必要になりました(1974年 ・ 撮影)。


055 (21)    白い馬 和歌山県 Wakayama Prefecture
和歌山県海南に黒沢牧場がありました。 私は清水町あらぎ島に寄ると帰りは黒沢牧場に寄り、馬の撮影をしていました。 ホワイトの馬がいて光り輝いています。 1977年あたり部下に流し撮りを教え富士フォトコンテストに 出品させて入選しました。 馬は多い時6〜7頭いて牧場での最後のカメラマンとして牧場の人から、たまたま今日で馬の牧場は終わりですと聞き・・・残念だったのが思い出(1975年 ・ 撮影)。


055 (22)    大阪空港 A 兵庫県 伊丹市 Hyogo Prefecture Itami
私は教室の生徒さんに京都の岩田山の猿 ・ 奈良の鹿 ・ 大阪伊丹空港は作品になり、良くコンテストも入選が多いと良く教室や講演会で伝えていた。 私自身アマチュア時代に良く入選していたからです。 ひまわりを前ボケ技法で飛行機と、今は入れない車も撮り入れて撮影しました(1975年夏 ・ 撮影)。


055 (23)    大阪空港 B 兵庫県 伊丹市 Hyogo Prefecture Itami
三脚を使用し、巨大ストロボ(ガイドNO180)使用して作画、プロになってからも空港の記事やアドバイスを良く執筆していた。 当時、伊丹空港は私のオハコだった、生徒さんでミノルタで上位、JPS展等多数の入選者を出した(1975年夏 ・ 撮影)。


055 (24)    安乗文楽村芝居 A 三重県 志摩市 Mie Prefecture Shima
当時JTBから月刊誌、旅と云う雑誌が人気がありました。 グラビアでは林忠彦先生の作品ほか有名作家が登場、その中にアマチュアの部のコンテストもありました。 私は組写真で応募、4ページ程のドキュメンタリーで入選しました。 作品は祭の前、まだ準備中なのに早々来ている村人のおばあちゃんと祭りの準備をする人を組み合わせて撮影、良い作品になりました。 旅(日本交通社)9月号で一連の作品が掲載される(1975年 ・ 撮影)。


055 (25)    安乗文楽村芝居 B 三重県 志摩市 Mie Prefecture Shima
当時はカメラに多重装置は無かった、現在のデジタルは高級カメラにその技術が組み込まれている。 私はアナログフイルムが動かない様に巻き戻しボタンを押して3回多重にしました。2枚はアウトフォーカスにして、残り1枚はピントを合わせて撮影。 現在でも充分通用する作品だと思っています(1975年 ・ 撮影)。


055 (26)    山村の里 滋賀県 余呉町 鷲見 Shiga Prefecture Yogo Town Washimi
1978年大島渚監督の日仏合作映画「愛の亡霊」が話題になった。 その中でロケ地が琵琶湖の山村の奥地、滋賀県と福井県の県境、廃村で行われたと聞き早速行きました。 村人は既に居なく、数日前までは生活していた気配がありました。 洗濯物も残っていたので私は気に入り数回通いました(1978年 ・ 撮影)。


055 (27)    霧の中のマヌカン 京都府 亀岡市 Kyoto Prefecture Kameoka
亀岡は西嶋保介氏の奥さんの故郷だと言って案内して頂いた。 たまたま通りかかった田舎道でマヌカンを発見、私は作品になると直感し後日、数度1人で亀岡へ。 当時は道も悪く池田市から山越えして私の家から2時間、早朝山道を車で走った。 暗がりでマネキンを見ると不気味、眼はグリーンに光り気持ち悪いながらも良い作品を創って、プロになるのだと自分に言い聞かせ努力した。 そのかいもあってフォトアートほか2〜3点入選した(1973年 撮影)。


055 (28)    大根島 A 島根県 Shimane Prefecture
秀影クラブ撮影会だったか? 西嶋さんと2人だけか?、中国地方の島根 ・ 鳥取の撮影旅行で大根島は海の墓地だった。 当時、あちらこちらに数隻、船の残骸が残っていたが2017年冬に訪れたら、殆んど残っていなく僅か数隻、 それもこの作品の半分程まで朽ちていた。 1970年代の思い出です(1977年 ・ 撮影)。


055 (29)    大根島 B 島根県 Shimane Prefecture
朝陽の中、船の残骸を撮影した。 ツアーでかれこれ4〜5回案内している、宿から1時間半位かけて日の出に間に合わせての撮影ですから大変、当時は相当ヤル気がありました。 現在も時々同じ事をしていますが体力が落ちて、 当日夕方近くになるとやはり疲れて来ました(1983年 ・ 撮影)。


055 (30)    大根島 C 島根県 Shimane Prefecture
私の地元、寝屋川市で写真店を営業していますので自然と写真の好きな人が集まって来ました、多い時は28名程いました。 写団寝屋川を私がクラブを結成、撮影会も年2回宿泊でしました。 その節、同じく鳥取 ・ 宍道湖 ・ 大根島 ・兵庫県 ・ 京都府 ・ 日本海を周り、丹後半島まで案内していました。 私の過去の経験から皆さんを案内しました、現在もそうです、自分の経験を元に案内しています。 被写体も知り尽くしていますので間違いないのです(1986年 ・ 撮影)。 


055 (31)    思い出の人 大阪府 岸和田市 Osaka Prefecture Kishiwada
岸和田だんじり祭に行きました、私は当初から祭りの本番の山車とか、だんじりは昔から撮らない様にしている。 訳は、殆んどの人がシャッターを押します、勿論、私も押しますが? カメラマン全員が押す作品は魅力があまり無いと思う。 当初はその場面が入選も多かったと思うが、私は研究を重ね当初から祭りの裏を撮る作戦を実施した中で、その土地の特徴ある人物を選び追いかけると云う進め方、だんじりで出会った昔の元親分に出合い本人を数回追いかけ、 家に招待されるまでになりました。 眼の輝きはアナログフイルムに針で突いてストロボ光で光った様に見せました。 大変な作業でした(1973年 ・ 撮影)。


055 (32)    湖の中 滋賀県 Shiga Prefecture
1975年APA(日本広告写真家協会)で一般公募のテーマが告白的女、私が考えたのは、私が女になって思う気持ちを考えました。 作品を創る前に考えてコンテを作り、テーマは私の愛の日記より・・・考えました。 愛し合った2人だったが突然別れが来て湖に身を投げる、そして天国へ・・・愛 ・ 別離 ・ 死と順に考えて、当時会社の部下の女の子にお願いしてモデルになって頂きました。 43年前の事です、然しAPA展に出品する旨、理解して頂き 見事に入選、それも2年連続でした(1975年 ・ 撮影)。


055 (33)    ヌード撮影会 A 大阪市 Osaka City
大衆フロを営業していた森成雄氏のフロ屋さんで撮影会を1度だけ・・・企画は、ふるた信晴氏、APA ・ JPS会員のプロ。 当時はアマチュアでしたが女性ヌード撮影会を毎月実施、東京の藤田和宣氏の真似をして作りました。 私も友人ですので 協力してお客さんを数人紹介しながら、私は招待されて撮影しました。 当初は川上緑桜さんが指導しましたがその後、御自分で指導されました(1976年 ・ 撮影)。


055 (34)    ヌード撮影会 B 大阪市 Osaka City
私はまだ当時プロになる2年前でヌードの勉強もしていました。 プロになったら色々な仕事に直面します、それをこなす為です。 友人のフロ屋さんの中で撮影、ライトの光を上手く表現しました。 この作品は私だけ、角度によって 見つけました、良い作品になりました。 その経験で1980年代ヌード撮影会の講師の依頼が数多くありました、それも良い思い出です(1976年 ・ 撮影)。


055 (35)    古い家 滋賀県 Shiga Prefecture
写団蟲の撮影会で京都の奥地に・・・それぞれ自由に自分の好きな被写体を撮っていた。 私は茅葺の家を発見、家の方に頼んでのれんを立て、鶏を放って頂いた。 見事的中、アサヒカメラ月例3等になりました。 2018年くずは朝日カルチャーの実習で立ち寄ったら、茅葺の家は無く、その家主の女性に出合い話を伺いました。 自分の所の家だったとか、昔料亭をしていたとの事でした、また来年も訪ねようと思います(1976年 ・ 撮影)。


055 (36)    渡り橋 滋賀県 近江八幡市 Shiga Prefecture Omihachiman
今はなき西の湖の葦を運ぶ橋です。 西の湖に渡る木の橋だった。 今では珍しい木の橋です、穴も開き既に木も腐敗して危ない状態でしたが、橋の中央からの撮影は絶品でした。 通る度に皆さんに思い出話をしています(1977年 ・ 撮影)。


055 (37)    水辺の人 滋賀県 大津市 Shiga Prefecture Otsu  
湖畔で洗い物絵をする女性、40〜50年前は良く見る光景でした、近年少なくなりました。 カメラはアサヒペンタックス6×7でスナップしました。 現在までアナログフイルムを約2万枚DVDにしています。 その中から2000枚が 私のギャラリーに入っています(1973年 ・ 撮影)。


055 (38)    映画のロケ地 滋賀県 守山市 Shiga Prefecture Moriyama
大島渚監督の愛の亡霊のロケ地で経験、琵琶湖湖畔で五社英雄監督の肉体の門のロケが行われました。 ロケの合間、夜スタッフが帰った後で撮影、4階建のビルでした。 駅 ・ 池 ・ 街と日本の戦後の闇市等もあり、  大がかりなセットに躍らせられました。 映画を制作するのは大変だと改めて実感した。 その後、五社監督は2.26事件他、何回か同じ所でロケをしたと聞く(1886年 ・ 撮影)。


055 (39)    ハワイ A アメリカ ハワイ Amerika Hawaii
初めての海外、自費で行きました、80回海外に行き自費はハワイとフィリピンのみです。 ハワイの名所シーライフパークでした、イルカのショーだったと思います。 PLフイルターをして空の色が全く違ってハワイでは 多くの作品が生れました。 奥さんも三木淳氏審査の創価学会写真コンテストで2等になり思い出です(1978年 ・ 撮影)。


055 (40)    ハワイ B アメリカ ハワイ Amerika Hawaii
ハワイは当時、日本の空と違い空気が違っていました。 日本は高度成長時代、空気ほか公害問題も多く発生、日本とは違うのを実感しました。 シャッターチャンス良く、素晴らしい作品だったと思う(1978年 ・ 撮影)。


055 (41)    墓地へ フィリピン Philippines
友人の川上緑桜氏が富士フォトコンテストで活躍、第1回(1976年)コンテストでカラープリントの部でグランプリ受賞しプロに転向した。 お互いライバルでありながら私はラボの社員、川上さんのお店のDPEの取引関係にあった。 元二科会理事長の森井禎紹氏と川上さんの海外ツアーにそれぞれ祝って参加した。 私は富士コンのスライドの審査ではグランプリでしたが、フイルムがコダックだったので格下げされたと当時、宣伝部長、土門拳さんの お弟子さんでもあった石井彰一氏が川上さんの前で語られました・・・思い出です(1978年 ・ 撮影)。


055 (42)    子イヌ 大阪 Osaka Prefecture
私の近所で子犬が5〜6匹生まれた、生れて数日後、私は可愛いので撮影をさせてもらった。 それは二科展に出品したいと思った、二科展は1976年から続けて3回入選していたので4回目を考えていた。 子犬を見せて頂き チャンスだと思って撮影したが? どうも作品に納得しなかった。 もうひとつパンチがないと考えて次のギャラリーに決めました(1978年 ・ 撮影)。


055 (43)    海の子 大阪市 Osaka City
4回目の二科展入選作です。 私は太陽賞受賞後プロになりフリーカメラマンとして会社を退社しプロカメラマンとしてスタートしました。 家では写真事務所兼、写真店を営業し、主に店は奥さんに任せて、私はフリーで色々な写真の注文に 対応して努力しましたが? 商品 ・ 建物 ・ 音楽と様々な撮影をしましたがハッキリ言って上手ではありませんでした。 先輩で写真学校のOBの福田匡伸さんは一流、松下電器ほか大企業の広告を手掛けられました。 私は方向転換し琵琶湖の風景のストックを 主な仕事にしました。 作品の海の子はスイミングスクールの子供達を撮影し上部は合成で空を撮影、空は横流しにしました。 入選して二科会の写真集の中、評論家の田中雅男さんが作品集の中からピックアップして講評分にて大阪湾で撮影した スケールが良いと書いていた(1975年 ・ 撮影)。


055 (44)    飛立つ 滋賀県 琵琶湖 Shiga Prefecture Lake Biwa
二科展76’の入選作です。 柏原市の山下春男氏は猫 ・ 奈良の中村明己氏は琵琶湖の白鷺の置物 ・ 写団蟲の山城英明氏は夫婦で散髪するスナップ ・ 森成雄氏は滝と鳥 ・ 角尾栄治さんはSKY雲とバービーの合成でした。 ちなみに私のこの作品も合成ですが殆んど分らず、誰も知らなかった、後日太陽賞へ出品(1976年 ・ 撮影)。


055 (45)    荒れる湖 滋賀県 琵琶湖 Shiga Prefecture Lake Biwa
私のギャラリー太陽賞にも同一作品ありますが、思い出として再度このギャラリーに入れています。 撮影日と発表はそれぞれ違います。 太陽の紙面に1ページ大きく掲載されました。 カメラ誌より一回り大きい紙面、迫力がありました(1977年 ・ 撮影)。


055 (46)    朝 滋賀県 琵琶湖 Shiga Prefecture Lake Biwa
月刊太陽は多くのプロやハイアマチュアの方が応募されていました。 30枚の組み写真を1年間のテーマで制作するのが通常、1年間同じテーマで取り組まなくてはなりません。 また発表された方は写真集の方 ・ 個展をされた方も応募 されていました。 私は過去8年間の発表作品の中からも数点入れて良い作品を選びました。 風景作品だったので力強い作品にするには1年間では無理でした(1977年 ・ 撮影)。 


055 (47)    プリンター 三和カラー株式会社 Sanwa Color Co
機械は米国製のパコトロニックと云うプリンター、米国パコ社の製品。 当時は最新の機械、カラーネガプリンターでした、ロールペーパーで1000枚を2時間ぐらいで完了。 右の作業をしているのはパコ社の滝口さんでした、 ミネソタ州で講習を受け、日本の技術者で最高の方、私は良くミスし機械を壊して修理して頂いている所(1977年 ・ 撮影)。


055 (48)    若目田幸平氏と 平凡社 Heibonsha
太陽賞の表彰式で若目田さんは準太陽賞でした。 後日、平凡社より写真集を出版されています。 アサヒカメラの年度賞受賞、女たちの下町と云うタイトル。 木村伊兵衛2世とも言われていた(1978年 ・ 撮影)。


055 (49)    茶室訪問 平凡社 Heibonsha
月刊太陽  茶室訪問と云う特集で私は奈良方面の取材を担当しました。 1978年11月号、太陽賞カメラマン競作号、太陽賞の先輩、小川忠博さん(第9回) ・ 本橋成一さん(第5回) ・ 鈴木龍一郎さん(第12回)それぞれ全国の茶室を取材した。 私の作品がグラビアトップに採用された、ただしこれはサービスだと思った、これも思い出(1978年 ・ 撮影)。


055 (50)    丸窓 奈良 Nara Prefecture
茶室訪問は一週間、奈良のホテルに籠り編集部の方と取材した。 珠光庵 ・ 清秀庵、吉野では吉水神社 ・ 群芳園、大和郡山では慈光院 ・ 桜井の音羽観音寺 ・ 葛城の当麻寺中之坊 ・ 西大寺の愛染堂等を撮影した。 太陽賞の初仕事だった、編集長から雑誌は良く売れたと聞く、写真よりも企画が大当たりした様だった。 嵐山先生は茶室を重く、形にとらわれないで誰でもふらりと訪れる茶室訪問にしたいと語っていた(1978年 撮影)。

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