? 新物語のとき 1  琵琶湖の写真家マツシマススム




新物語のとき 1



※作品は左から右に並べて展示しておりますので、
画面左下のグレーのスクロールバーをクリックしたまま
右にスライドさせてご覧ください。



         


062 (1)    東京オリンピックポスター 1964年
私が写真家に憧れて大阪に来た年でした。カメラは早崎治氏。後に私がプロになり
APA会員になった時会長をされた。亀倉雄策氏のポスター展が2021年下関の美術館に行き、
ポスター展を見学した。亀倉さんの氏名は大きく早崎さんの氏名がないので
私はクレームを美術館に言った。氏名を書き入れると美術館の方は私に言った。


062 (2)    初めてカメラ誌に 1965年
1965年カメラ雑誌の思い出は大阪に来て直ぐ作品が自分で良いと思ったら
送っていた。現在のフォトコンの前身に笠屋みつ子編集長時代入選でなく、
もうちょっとのコーナーで取り上げて頂いた。大阪城の夜景。


062 (3)    年度賞 トロフィー 1965年
青木君夫先生の写真クラブ、大阪キャビネクラブ(別名 白百合会)とも言っていた。
例会は大阪鶴橋写真マットの専門店で有名な金丸真(株)でした。 金丸マット TEL 06-6971-2777


062 (4)    通知ハガキ 1965年
小西六写真工業(現在コニカミノルタ)さくらフィルムと言って日本では2大メーカー。
富士フィルムと小西六のさくらフィルムでしたが、デジタル時代で小西六は写真から撤退した。
ブルーリボン賞(最高賞)太陽は中之島で早朝サッカーの練習風景でした。一段とプロの道に憧れた。


062 (5)    雨ドレス 青木君夫氏 二科展で賞
青木君夫先生の名作2枚組写真二科会で話題になり、カメラ誌でも取り上げられました。
思えば青木先生のピークの時代だったと思う。40代で若々しくブルーのセーターが良く似合う男前でした。


062 (6)    フォトアート 1974年
松本徳彦氏過去JPS日本写真家協会プロ団体の副会長をされ、
協会運営にずっと携われJPS審査松本徳彦氏を知る田沼武能会長と共に
超有名人、又、越路吹雪さんをテーマに撮っていた事で知られている。


062 (7)    フォトアート1等 研光舎(土門拳のヒロシマを発行)
松本徳彦先生が当時審査されていた。和歌山県の野上電鉄(現在廃線)を
私はかれこれ15年、1年に2〜3回訪れていた。
カラーリバーサルとモノクロで撮影した。フォトアートで1等でした。


062 (8)    フォトコン 丹後上世屋
モノクロは1964年から1978年太陽賞受賞の通知2月迄13年間使用、
それ以降カラースライド2008年迄それからデジタルです。カメラ誌を複写。


062 (9)    林忠彦氏の選評 1973年
林忠彦先生は二科会創立会員で色々な所で審査もされ、その中で私との相性も良く<先生の審査では
必ず入選していました。ヤシカのコンテストで最高賞、JPS.81では金賞の時も審査員でした。


062 (10)    ミノルタカメラ ロッコールクラブ 年度賞 1976年
先の林忠彦氏、中村正也氏、大竹省二氏、緑川洋一氏、植田正治氏、堀内初太郎氏と
棚橋紫水氏と超有名作家をミノルタは呼び、多分ミノルタカメラも景気が良く当時人気No.1だった
篠山紀信氏とは年間契約するほどデジタルが全盛になる2000年頃迄私は良い待遇だった。


062 (11)    東松照明 黄金時代 写真集
戦後の巨人と言われ、戦前は土門拳さん、木村伊兵衛さんだと思っている。
太陽賞表彰式で正面最前列3メートルだった。私は頭が真っ白にポーッとなり、
あいさつを忘れJPS金賞の時も同じだった。それだけ写真界に影響を与えた超有名写真家だった。


062 (12)    フォトコンテスト 1968年 初代のフォトコン
写真家と言えば土門さん時代、私の1964年リアリズム運動が徐々に変化する時代だったが、
土門さん(中央)以外は私と関わり合う関西では岩宮武二氏が現在迄彼を越える人は出ていない。


062 (13)    APA賞状 1975年(昭和50年)
何がなんでもプロを目指していた。その為にAPA(日本広告写真協会)の写真展に入選する為
努力しました。JPSの一般公募は1976年から始まり、私はまずAPAを先に考えて応募して入選しました。
心斎橋そごう百貨店で表彰式で秋山庄太郎会長から直接この入選証をいただき忘れられない。


062 (14)    APA 1976年入選
私は当時二足のワラジ、昼は三和カラー(株)のサラリーマンとは言ってもカラーの現像所、
写真の現像プリント裏方をして給料は全部作品につぎ込んでいた。奥さんは写真業で繁栄し、
さらに奥さんからも毎月20〜30万受取合わせて50万は自分の写真三昧に明け暮れていた。


062 (15)    APAパンフレット 1976年 そごう百貨店
テーマは「私の愛の日記より」で3枚組で応募し2年連続入選しAPA入会の規定に達し嬉しかった。
会社の部下の女の子に理解してもらい?男女は幸福と云う?やがて別離、湖に体を入れる
?着ていた長襦袢が浮いているというストーリーでした。組写真3枚でした。


062 (16)    今月の入賞者は 日本カメラ5月号 1974年
審査員は岡山の二科会、緑川洋一氏だった。その中金賞2回取り自分では
今年は年度賞だと自信たっぷりだったが後半つまづき最後は4位だった。
力を入れ過ぎ日本カメラ10〜12月号まで50点づつ送り、審査員の印象を
悪くしたと思っている。1979年は松下電気のカレンダー。二人で競い結局
私の負け、緑川氏に決まった。プロになり対決したのも良き思い出です。


062 (17)    旅 日本交通公社 1975年 9月号
当時月刊誌「旅」は人気雑誌。それだけ世の中旅のブームだったと思う。
雑誌の中写真コンテストがあり、モノクロ、グラビア4〜5ページで
組写真応募入選した。林忠彦氏他旅の写真家のグラビアは人気だった。


062 (18)    三重県 安乗文楽村芝居 1974年 
三重県安乗の村芝居は関西では有名、私は後日プロになり、
「マイたうん」と云う写真ツアーを現在でも続けていますが、
安乗村芝居撮影は6回程実施、時代と共に写真も自由に撮れなく、
カメラマンはある意味じゃまな存在に・・・!!


062 (19)    富士フォトコンテスト(シルバー賞) 1976年
第一回は1950年とか、1976年はそれまで中断していたのを復活して10年ぶりでした。
日本中のアマチュア写真家達がふるって応募結果はシルバー賞、銀賞でした。
大阪本町で表彰式で東京より石井彰一写真部長が来て式の中、マツシマ君は本当は最高賞だったが
フィルムが我が社以外のコダックだったので残念ながら格下げになったと伝えられた。
私は最もだと思ったが?コダックで応募してプリントの部、スライド部共入選でした。
当時私はコダックのフィルムが大好きでした。


062 (20)    京都競馬場 1975年
サラリーマンだった当時、会社の専務が競馬していた。私も1,000円が17,000円になり、
世間で良く云う最初に当たるとハマる。仲間でAPA会員の平井忍氏は馬主シユザエイト、
シユザの名として馬は活躍、後に私のツアー会員、野上勝也氏はカミノマジック等の馬主、
有馬記念でも優勝し、私も競馬と写真三昧の日々でした。


062 (21)    文学のひとフォトアート 1等(研光社)
写真の先輩西嶋保介氏(大阪光芸クラブ、秀影クラブ)と毎月、正月は能登に良く撮影旅行し、
過去50点以上入選して、縁起の良い被写体地でした。その中でタングステン色、コダックPCF、
ISO感度低く25ぐらい、絞り開放F3.5、シャッター1/60、色は好きでした。あまり他の人が使用してなく?
人と違う事を考えた時代でした。このフィルム(アナログ)1996年頃迄、良く使いました。


062 (22)    文楽の女の選評 伊藤知巳氏 フォトアート審査員
伊藤知巳氏は当時「評論家」でした。土門拳氏の甥とも聞いた。このギャラリー062 (12)の中の
一番右側の方です。1977年フォトアートは倒産、写真は12月号迄審査終了していたので私が最後の
年度賞でした。1978年太陽賞受賞してサロン銀座で個展の折来て頂き「君をフォトアート」の
年度賞にしたのは間違いなかったと言葉をいただき、感銘したのを覚えている。


062 (23)    フォトアート最後 年度賞 1977年
フォトアート誌は学生時代から憧れでした。来阪した時の師匠、青木君夫先生はフォトアート誌で
活躍されていたのと土門拳さんも関係されていたと聞き絶対に年度賞をと決めていた。
残念だったのは景品がゼンザブロニカに決まっていたのに、貰えなかったが・・・心残りでした。


062 (24)    たそがれ ニッコール準特選 1976年
大阪伊丹空港の夕暮れ、コダックのPCFフィルムとストロボ光でした。まずこの色合いは他では無い色です。
現在は車やオートバイは乗り入れ禁止ですが、その頃の若者は乗り入れ、絶対に今では出来ない作品。
そしてこの年土門拳さんは最後の審査員でした。塚田祐次さんがニッコール大賞でした。


062 (25)    ニコン発表
この名簿が来るのが当時楽しみでした。それは一体誰が大賞なのか?他の方は誰なのか?
これもコンテストの楽しみも有りました。宮城県の氏家一族氏家春夫さんとは、カメラ毎日表彰式で
一緒になり、年度賞も長い間交換していました。現在でも小川照夫さんは活躍されています。


062 (26)    賞金袋 太陽賞(平凡社)
1978年第15回太陽賞の賞金袋です。私は写真関連の物は全部残していました。
奥さんがそろそろ整理したらと言い、私も何時どうなるか?分からぬ年齢に達して来たので、
整理しアナログフィルムも58年の間の46万点、ボチボチ捨てています。中々進みません。


062 (27)    新聞広告 朝日新聞から
1978年7月号は6月12日太陽の創刊して表彰式もありました。日本人の源流を探る特集、
日本人はどこから祖先は?壮大なテーマでした。文は松本清張が審査員でもあった。
石本康博さんが韓国迄取材した大作。この雑誌に8ページに渡り私の作品が発表された。


062 (28)    二次会パーティ 新宿バッカス
左は岡本太郎さん、杵島隆さん、若月幸平さんと私、右は野町和嘉さん、現在はJPS会長されています。
野町の師匠は杵島さんだと、又杵島さんは植田正治が師匠だとその時語っていた。
花博1990年、蘭の花を発表。私は琵琶湖36名に私が選ばれるとは思っていなかった。


062 (29)    共同通信社 兼村博さん
太陽賞が発表されてから共同通信社より取材の申し込みが有りました。その時、兼村さんは
写真界の芥川賞おめでとうございますから始まった。私はビックリした。写真評論家の重森弘淹さんもカメラ毎日に
芥川賞だと評していた。重森さんは東京統合写真専門学校の校長もされ、生徒もこの太陽賞が多く輩出している。


062 (30)    三木淳氏 サイン 1981年
私は1981年JPS金賞に5年の歳月を要して金賞受賞した。思えば第一回の1976年伊丹の空港の作品で落選し、
ずっと応募はしなくて、研究考えていた。1981年大阪大寒波が来て、琵琶湖へ「湖北冬日記」4枚組写真で金賞だった。
委員長のJPSの望月剛さんから電話で知らされた。太陽賞に続き飛び登る程嬉しかった。会長の三木さんよりサインをもらった。


062 (31)    ニコンサロンハガキ 1979年
ニコンサロン銀座で個展しました。初日有名写真家の三好和義さんも来てじっと見続けていました。
太陽賞は1975年彼も応募、最後予選に氏名が載っていました。
田中雅男評論家と須田一政さん2人が来てお茶しました。田中雅男さんは日本カメラを紹介して頂き
須田一政さんはそれからことごとく良い作品を発表、日本有数の写真家になりました。


062 (32)    フォトコンテスト  1979年(2月号)
編集長兼社長 河野真進さんニコンサロンに来て頂き夕食は一緒にごちそうになり、
おまけにホテルまでタクシーで送って頂き、忘れられない思い出です。グラビア5ページと
順は前田真三さんの次と良い扱いでした。後にフォトコンとは永い間つき合い43年。今もなお板見さん、
黒田さん、藤森さんと4代の編集長と細く長くつき合い出来た事に感謝しながら、良かったと思っている。


062 (33)    個展の評 ニコンサロン 1979年
ニコンサロンに応募して初めての個展でした。会場でも作品の設置と合わせて8日間、
東京へ近くのビジネスホテルで素泊まり、朝食は銀座にマクドナルド、日本一号店を毎日利用、
夕食は兄とか友人、知人と初めてだけに緊張の連続でした。
多くの有名作家に出会い、中でも私の田舎出身の森永純さんの印象が残っている。
ニコン会報誌では、細江英公先生が写真展評をお書きになっている。


062 (34)    関西の写真家 コダックナガセサロン ハガキ
アマチュアからプロになって関西の有名写真家の仲間になれて喜びました。
岩宮武二、入江泰吉、井上博道、川本武司、小西祐典、高田誠三、田中幸太郎、
棚橋紫水、津田洋保、中村吉之介、藤本俊一、堀内初太郎、山村喜太郎、山本健三氏 他


062 (35)    中村吉之介先生、前田幸生先生 APA保証人
太陽賞受賞後プロ活動する最初はAPA(日本広告写真家協会)1979年申請。
中村先生、前田先生、御両人共私の母校関係だったので心良く受けて頂いた。
もちろん二人共APA会員、プロになるには2名が必要でした。2022年現在中村吉之介先生は
2012年に逝去84才。前田幸生さんはAPAとJPAに所属。現在でも作品を創られている。
中村先生はプロになるなら人前で話が出来る事、文章を書ける人になれと良く言われました。


062 (36)    APA GROUP APA82 1982年
私がAPAに入会すると、中村吉之介先生がプロでも、もう一度アマチュア的純粋に作品を創ろうではないか?
とAPA関西に呼びかけ、1980年に写真好きなグループが生まれ、数年グループ展と毎月例会を開き意見交換した。


062 (37)    西川きよし氏 選挙ポスター 1986年
1985年私は大阪日日賞(大阪日日新聞社第40回水都祭)を受賞した。
写真展を通じて琵琶湖と淀川の水を守ろうと運動しての賞であった。
「奉公碑」同年家庭画報全国野の花里の花10人の写真家に、大阪日日賞を
西川きよし氏、横山やすし氏、御両人も表彰され、西川きよしさんが選挙に出るとの事、
撮影に私からアプローチして私のスタジオで撮影、100万票以上でトップ当選されました。


062 (38)    記念写真 よみうり文化センター 1988年
千里よみうり写真教室が1987年スタートした。よみうり文化センター(中村吉之介写真塾)講師に
私も依頼された。他に河野豊氏、土田智代子と合わせて4人で多い時は100名を越え大盛況でした。
よみうりTVから出向された青木さんが(最前列の左下)教室全体の責任者だったと思う。


062 (39)    モクレンの里 1988年 藤田玲子さんと
よみうり文化センター時代、生徒さんから教室以外でも個人的に指導してほしいと頼まれた。
三坂康一氏と藤田玲子さんだった。三坂さんはJPS金賞を受賞し、藤田さんは二科展やペンタックスで活躍。
個展や写真集も出して大活躍。ソフトレンズとアナログのフィルムタングステンが得意だった。
藤田さんは今でもアナログフィルムで撮影。2021年暮、富士フォトサロンで日本旅行作家展に出品、
2人で久しぶりにお茶して今後も生きている限り元気だったら写真を楽しみましょうと約束しました。


062 (40)    パンフレット 1979年
私が太陽賞受賞すると早速仕事が舞い込んで来た。和歌山のカメラのハマダとニコンが
タイアップしてカメラ宣伝と店のお客様で私が作品の講評するといったスケジュールでした。
何しろ初めての事で人前に出ると上がるし、言葉もあまり出てこない丸切りダメ男でした。


062 (41)    記念写真 能登半島
能登半島撮影会、マイたうんを毎月、日本の国内を年に数回、海外も当時は
年に2〜3回とツアーは大盛況でした。現在まで80回、今も少人数ですが
続けています。ゲスト写真家はJPS会員の能登では有名な渋谷利雄氏。
私の母校の大先輩で仲良くさせて頂いてます。中央の赤い男性が渋谷氏です。


062 (42)    写真ライフ 日本写真企画
フォトコンの弟誌、写真ライフ季刊誌が年に4回現在も有ります。マイたうんを約10年広告ページで
ツアーの皆さんの作品を発表。又、私の地元のミニコミ新聞はモノクロですが約15年広告として作品を発表。
全国から参加されました。ただし、広告代も年間300万と大盤振舞いしアマチュアの作家を
数多く輩出しました。現在では皆さん年齢を重ね、次々と天国へ、悲しいです。


062 (43)    新聞広告 マイたうん 1995年
私の地元にマイたうん新聞社が有りました。毎月1回の配布。私は1ページ10万から13万で
作品数に応じて半ページにしたり、工夫していました。年度賞としてカメラ誌なら年度賞と同じ
1位賞金は50,000円、2位30,000円。300回記念では1眼レフカメラ迄景品にしていました。


062 (44)    ブルーレイク賞 滋賀県 1993年
稲葉稔知事時代、私が「琵琶湖私景写真集」を出版しました。滋賀県を全国に宣伝して
貢献したという理由で頂きました。女性は古澤和子さん。古澤さんは余呉湖をテーマにしていました。
文ヱ門で時々お茶して、ネガの合成よりスライドの合成が良いと、私が現像所時代のアドバイスしました。


062 (45)    東京新聞 1993年
私が初めての写真集「琵琶湖私景」を東方出版(大阪)から出した。編集は京都のシーグ社
初版3,000部 第3版で合わせて5,000部。その頃は現在の様にネットがない時代。情報は写真カメラ誌、
又は写真集の時代。マスコミも良く取り上げてもらった。大ヒットでした。第2集「琵琶湖逍遥」3,000部でした。


062 (46)    イメージモールジャパン 世界最大規模のデジタルアーカイブめざして 2000年
デジタル時代を先取したのだろうか?日立、朝日新聞、トッパン、3社で合同会社を立ち上げ、新会社設立した。
全世界に写真のリースをする会社だと担当は、町田和彦さん 月刊太陽の平凡社の事業部過去社員だと言っていました。
しかし数年で事業は中止されたが、ここの写真家に選ばれたのは嬉しかった。


062 (47)    パンフレット びわ湖銀行 1995年
滋賀県の写真をずっと撮り続けていると、滋賀県でも少しづつ認知されたのでしょう。
滋賀銀行、びわ湖銀行、滋賀信用金庫と金融関係のパンフレット、カレンダーいろいろな所で採用された。
びわ湖銀行店頭のパンフレットです。現在は関西アーバン銀行に吸収合併されています。


062 (48)    ペンタックスフェア カメラのナニワ 1988年頃!!
私は1966年に結婚。まず写真活動を充分出来るのに奥さんに写真業をさせて、
私は三和カラーでサラリーマンとして二足のワラジでした。先輩達が写真と両立するのが?
大変で生活優先すると、写真を中止して行くのを数多く見ていたからです。私は時代に乗りうまく行き、
他のカメラマン以上、ぜいたくにフィルム使い放題、撮影も休日は全部写真の毎日でした。カメラのナニワさんは
ヨドバシカメラが来る迄、大阪トップの写真屋さん。そこの撮影会の講師もかなりしたと思い出です。
又、私はペンタックス6×7 3台、6×4.5を2台使いつぶしました。ペンタックスファンでした。


062 (49)    田沼武能氏 2021年
田沼武能さんは知る人ぞ知る写真界では知らない人はないと云う超有名人です。
木村伊兵衛さんの一番弟子で知られ、写真界からただ一人文化勲章を受賞、
日本の最大なるプロ団体JPS会長を長年経験され、黒柳徹子さんとユニセフの子供達を撮影。
先生から武蔵野写真集をサイン入りで頂き大感謝です。ありがとうございます。


062 (50)    高島成光氏 2022年
高島成光氏(元共英製鋼会長)千里よみうり文化センターに御夫婦で参加。
写真教室で知りました。30年以上のお付き合いです。年に数度、撮影会に参加され、
時には2人だけで琵琶湖の余呉湖に。私から見ればグルメと思っているが、御本人はグルメと違う
良い店を知り味とか、そこの店の研究迄されています。私は敬服しています。
余呉湖の徳山鮓は予約は数ヶ月前から。熊、猪、鹿、すっぽん、琵琶湖マスの料理、
私はかつて食べた経験なし。びっくり高級料理です。毎年カレンダー制作されてます。
徳山鮓 TEL 0749-86-4045

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