? 第15回平凡社太陽賞受賞  琵琶湖私景 冬から冬  マツシマススム




太陽賞受賞



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選考委員長総評

1978年 第15回 平凡社太陽賞受賞
琵琶湖私景 冬から冬(組写真)


051 (1)    初雪の伊吹山 shiga Takatsukicho
私が初めて琵琶湖を知ったのは大阪の日本写真専門学校に入学して、アルバイト先の同僚から西嶋保介氏を紹介して頂いた。 先輩の西嶋氏は更に写真クラブも紹介してくれた。それは青木先生だった(2016現在95才)、二科会会員では関西での最長老です。 先生の所で2〜3年間、学びました、大阪白百合会、別名・大阪キャビネクラブとも言っていた。 岡正一郎氏大阪光芸クラブが創設したと先生より聞きました、クラブの作品は当時モノクロでサイズが2L(キャビネ)約10点程、白い布に張り先生が1点づつ選評し順位を付けていました。 入会して間もなくの2年目で年度賞を受賞、プロフィールの1965年に盾を発表しています。
作品の初雪の伊吹山は画題が琵琶湖私景冬から冬だったので初雪の冬からスタート、季節巡って冬に終わると考えました。 30枚組写真(4切カラープリント)の応募です。
ニコンレフレックス500ミリの撮影でしたが・・・ピントも光も良く40年経っても同じアングルから撮影を毎年していますが・・・この作品より良いのは出来ません。


051 (2)    浮雲 shiga Hikone
撮影は1975年、写友の中村明己氏(JPS会員・奈良の鹿で有名)と二人で湖北に同行、お互いアマチュア時代クラブは写団蟲でした。
太陽賞作品30枚は1977年迄撮影した作品群から選びました。 太陽賞の前年に富士フォトコンテスト77”へ応募し入選しました。
太陽賞の応募作品は発表作品も良かったのです、既に写真集を出した方・個展で発表した方。 産経新聞社写真室も私と同時に応募、
1年間、新聞の連載作品でした。 最終まで4作品が競いました、九州産業大の丸尾シゲオ氏、準太陽の若目田幸平氏の4点が
最後に残り、投票に寄って決定した。 審査委員長の伊奈信男氏(写真評論家)の他に渡辺義雄(写真家、JPS会長)・中島健蔵(作家)・
羽仁進(映画監督)・篠山紀信(写真家)・五木寛之(作家)・石本泰博(写真家)・原仁(グラフィックデザイナー)、東西、超一流の審査員だった。


051 (3)    時雨れる shiga Nagahanashi
琵琶湖は秋から冬にかけ大荒れの日が多かった。 太平洋と日本海の気流がぶつかる丁度その接点だからだろうと?思っている。 
師匠の青木君夫先生の作風は心象写真とか心象風景と先生は語っていた。 あまり意味も分からぬまま・・・先生の作風に少しでも近ずく事だけを
考えていた時代、太陽賞作品30枚組写真の中で、私の得意としていたブルートーンの色調を基本に約20点入れ、中間のトーン5点、アクセントとして
赤を5点に組み合わせました。 季節感を出しながら・・・琵琶湖の悩める危機感のイメージを表現しました。 フイルムは当時あまり知られていない
タングステンタイプ(フジT64・コダックKPA40)を使用した。


051 (5)    白い道 Shiga Anegawa
組写真No.4は、フイルムが見つかりませんので、No.5がこの作品です。 何十年の月日で整理が悪かったのでしょう? 太陽賞30点中2点のフイルムが
出て来ない、その代わりスライドのフイルムからインターネガを作ったのでネガは有ります。 私の場合、スライドをメーカーに出しデジタルにしてCDに入れ
ネット上に入れています。ネガだとカラープリントを複写しないと私の場合上手く行かないので?・・・複写すると更に画質が悪くなりますのでプリントからや
ネガからの作品はギャラリーに入れない様にしています。 この作品は長浜市の姉川合戦の河口あたりで撮影、雪の日、雪解けの水溜りが光って
人生の道として、私の好きな作品になりました。 富士フォトコンテスト77”で入選しました、2年間で富士フォトコンテストは3点入選、良い成績です。
富士フォトコンテストは応募がギネスになる位、多い時は10万点以上あったと聞く?応募総数では日本一だと思う。 私は78”からプロになったので
生徒さん達に応募はすすめている、大賞は北澤悦子さんのモンゴルの母子が有ります、その他金賞、銀賞は10名を超えています。


051 (6)    凍る湖 shiga Ohumihachimanshi
近江八幡市の西の湖は琵琶湖撮影で私の好きなベストスリーに入っている。 1年間で10回〜15回は毎年行きます、作品の年は最も冷えた年で
西の湖の周辺では凍っていた。 1985年頃迄は雪も多かったが年々少なくなり、近年雪が珍しくなった、作品の様に凍る年はその後一度も無い貴重な
作品となっている。 ブルートーンにする理由に寒さ冷たさの表現に適している。 また湿度のイメージにも私の場合利用している。 審査員の
中島健蔵先生(作家)は二次会のパーティーで、席が1m先だったので私に向ってブルーの色でびっくりしたと・・・その当時、世間ではモノクロから
カラー化の時代になって僅か・・・眼に入る色をありのまま美しく撮る時代だった。 その様な時代に私はカラーを使ってモノトーンにすると云うのが
私の考え方でポリシーだった。 少し時代の先取りをしていたと私自身は思っていた、その考え方が太陽賞に選ばれた理由に入っているものと
私は思っています。 モノトーンと云う言葉がその後、多く使われて来た・・・


051 (7)    猛吹雪 shiga Ohumihachimanshi
先輩西嶋氏と一緒だった、車は西嶋氏が用意して昼の弁当も何時でも出て来た。 先輩西嶋氏が何ミリのレンズを使用しているのか?分らない、
全く教えるのではなく一緒に仲良く撮影に出掛けると云う・・・スタイルだった。 作品は後日例会で出て来る、私の考え方は相手より上手に撮影しようと思えば
数多く撮影する事だった。 またカメラのアングル、ポジションを相手より幅広く撮影する、露出補正もより多くするのを私は常に考えていた、結果は的中していたと思う。
私は先輩の西嶋さんが上手いはずなのに私の方がコンテストは多く入選していた、1964年〜1978年の2月迄14年間でした。 私の作風は西嶋氏の影響が
一番多かったと思っている。 先輩川上緑桜氏との関係は、写真作品に於いては全く関係が無く、世間では師弟関係がある様に思ってる方もおられるけど・・・
当時ラボの技術者だったのでラボの取引を川上氏としていたからである。 部下を数人地懐社に入会させていた(松本誠二)・(藤原マサオ)・(中野)さん達を無理やり
入会させて、私は例会の結果(成績)や選評を聞きに無料で参加していた。 勿論、川上氏も了解していた。 富士フォトコンテストでグランプリを獲得されて
プロに転向された。 海外ツアー(第一回)をフイリピンに、森井禎紹氏(二科会理事長)と二人でお祝いとして参加した。 撮影を共にしたのは一回だけで、
琵琶湖でヌード撮影会にも協力した。 ただし、私も太陽賞でプロになったのでお互い、少しづつライバルとなった。 シラサギを私がテーマの中に入れる事で、
ライバル意識が強くなった、その後、私も海外ツアーが多くなり、更にライバル心が増した。


051 (8)    魞と鷺 shiga Ohumihachimanshi
魞の上で休むゴイサギだった、琵琶湖へ行くとこの様な風景に良く出会う、白鷺・アオサギ・鵜・トビ・カラス・鳥なら何でも撮影していた。
風景の中の点景にしていた、早朝だったので朝もやが出て条件が良かった、カラースライド1日10本〜15本撮影が平均だった。 竹生島では
30本前後だったのを覚えている、自宅では写真業を奥さんが営業、私はラボの技術者として働いていた、給料は全部使い奥さんの収入まで私は使って、
今思えばひどい事をしたと?自分勝手で写真人生を人の倍使って楽しんでいた。 まさしく写真極道だったと思う、真似しないで下さい。


051 (9)    湖の中 shiga Takashimashi
1975年前後、私は写真クラブ?秀影クラブ・?写団蟲・?ミノルタロッコールクラブと3つのクラブに入会していた。
他に見学は岩宮・青木先生の?光芸クラブ・?川上先生の地懐社とまさに写真三昧の日々だった。
当時、写真の実力者の方々とも交流をしていた、兵庫の森井禎紹氏(現 二科会理事長)・アンダ知宏氏(APA)・
吉田功氏(JPS)・吉田一夫氏(第11回太陽賞)・川上緑桜氏(JPS)・関岡昭介氏(浪速写真倶楽部)・荒井保男氏(ニコン個展多数)・関西の有名写真家には
交流する様に努力していた。 棚橋紫水氏・中森三弥氏・長谷川梅之助氏・本庄光郎氏・堀内初太郎氏・ハナヤ勘兵衛氏等々。。。
太陽賞受賞後プロに成る為、先に(社)日本広告写真家協会(APA)に入会した、それは主に関西で審査を受けられる事を聞き?・・・中村吉之介先生を訪ね入会が許されて 保証人を喜んで受けると言って下さった。 私が月例コンテストで活躍していたので知っておられた、二人目は日本写真専門学校の大先輩前田幸生氏にお願いしました。
二人とも母校に関係していましたので・・・入会できました、その次にJPSに入会したいと思っていた矢先の年に高田誠三・川上緑桜両氏が落選したと聞きびっくりしました、
この御二方が落選したのなら私も落選するに違いないと考えました。 


051 (10)    朝 shiga Bentenhama
早朝流し撮り、鳥にピントを合わせてカメラを動かすワザ、現在も私の教室の生徒さんにも数多く指導している。 審査委員長の伊奈信男氏は写真評論家では当時
一流でした、また多くの写真の審査も殆んど参加されていました。 ニコンサロンに伊奈賞が残されている、1年間の写真展で最も優れている作品に与えられる賞です。
伊奈先生に作品が褒められて嬉しかった、また太陽のグラビアに大きく収載され大変感動しました。 思い出が今なお残っている、その後JPSに入会の予定ですが
JPS入会が難しいと思ってJPS金賞を受賞すると会員になれるだろうと、1981年にチャレンジし受賞しました、入会保証人は藤本俊一先生、関西の重鎮です。


051 (11)    湖岸の花 shiga Ohutsushi
作品は35ミリ ニコンで撮影、日中ストロボを使用、1969年の雨天だった、そのまま撮影すると花は黒くシルエットになる。当時アマチュアの方でストロボを使用する人は少なかった、殆んどまわりにあまり見られない時代、それだけ日中にストロボを使用する考え方はまだ少なかった時代。 作品は事実としては太陽賞ではマミヤの6×6で撮影応募しましたがフイルムを紛失しました、この作品は35ミリフイルムを代用しています。 湖岸の花にストロボ光で何回も撮影しました、現在ならデジタル時代、一回撮影すれば目安が付く当時は現像まで2〜3日必要、その場では写真が本当に写ってるかは全く分らない、現像が仕上るまで不安、失敗して次に行くと花は無く後ろの風景も変わっていたと云う事は当時多々あった。 私の手元に25万点のフイルムが山積みになっています、撮影回数は多くなり整理が後回しだったので管理が上手く行ってなかった。 デジタル時代は撮影日、他、データが残り本当に便利な時代、パソコンからホルダーに保存、タイトルも月日を記入しているので後日でも引き出しが凄く便利ですね・・・


051 (12)    梅雨時の湖畔(蓬莱山を望む) shiga Kusatsushi
雨天だった、ニコンレンズ24ミリ広角・ISO100・三脚無し・手持ち、雨に濡れながら15枚程シャッターを押した。 絞りを変えながらシャッタースピードはスローになった。
ローアングルだったのでズボンはドロドロに汚れた、暗雲が良かったのか? 太陽の紙面に大きく、大変嬉しかった。 1964年日本写真専門学校時代、同じ教室の
加藤守氏は先鋭写真家、一歩進んでいた、彼は月刊誌太陽を教室で皆に広げて荒木のぶよし氏のさっちん第1回太陽賞を皆に見せていた。 教室の仲間が
その本の周りを取り囲み・・・しげしげと作品を見入っていた、私はその周りの端から覗いて見ていた。 プロ写真家の登竜門と書かれていた、30枚の組写真と?
新しいフォト・ストーリーとも書かれていた。 加藤氏は群馬の鐘の鳴る丘も取材し、オリンパスペン片手に釜ヶ崎に労働者として働きながらシャッターを押していた。
当時、釜ヶ崎シリーズは岩宮武二氏の助手をしていた井上青龍氏が有名でカメラ芸術新人賞を受賞、写真作家を目指す人の憧れだったと思う。
井上さんの影響を受けていたかも!!


051 (13)    見つめる shiga Shigacho
車で走っていると猫が水鳥を眺めていた、面白いと思ってシャッターを押した。 この様な光景を見たのは僅か数回だけ、52年の間に2〜3回と滅多に無い。
太陽賞への応募の気持ちは写真学校の加藤さんの太陽を見て直ぐ私にも時期が来たら応募しようと決心はしたものの・・・実際に応募する迄15年の歳月が、
アマチュア活動で主力は月例コンテスト・カメラ毎日・フォトアートで年度賞、ミノルタロッコールクラブで年度賞で期は熟したと思った。
4切・130枚・制作費用は約100万円近くかかりました。
賞金より太陽賞が私にとって必要だったのです、勿論先輩の?西嶋氏・?第11回太陽賞の先輩吉田一夫氏にも意見を聞きました。


051 (14)    光の中 shiga Notogawacho
夕照の中、湖面のハイライトに合わせて露出を決めました。 湖面の輝きを強調し周辺はアンダーにして暗くしました、
ブルー主体の中、時々暖かい色を使用して湖に変化を付けました。 湖の光の先に魞を入れ絞りは最高に絞り込み、シャープに撮影しました。
個展はニコンサロン銀座松嶋時計店の4階にあり、エレベーターが無く階段を皆さんふうふう言いながら見学に来ていました、一週間泊まり込みだったのを覚えています。
三木淳・浮村隆正・三堀家義・細江英公・三好和義・山村雅紹・横須賀功光・佐藤健・松本徳彦・藤本四八氏等々、
多くの一流スター写真家、有名人に来場して頂き良き思い出になっています。


051 (15)    太古の漁港 shiga Onoueport
湖北滋賀県最大の港、現在の尾上港です、石垣を取り囲んで港になっています。 1964年モノクロ(白黒)用フイルターR(オレンジ)を使用しました、通常モノクロフイルムで
コントラストを強くするフイルターをカラーに使用すると作品の様に赤くなり好まれる作品ではなかったが!!ブルーの作品が多い中、アクセントになり効果があったと
伊奈さんより聞きました。 私の第2集、写真集琵琶湖逍遥の発表にも同じフイルターを使用、大変人気になりました。 防波堤の向こうは葛籠尾崎(奥びわこパークウェイ)、
琵琶湖で最も深い場所100mも越えるとか!!岬に神社もあったらしい!! 古代の遺跡が漁師の網に引き揚げられた。 尾上出身の小江慶雄氏、元京都教育大学長は
我が国の湖底遺跡の先鞭を切った方で有名、私は手紙を出して一時文通した事も今では思い出になっている。 漫才の大御所西川きよし氏が参議院出馬の時(1986年)も
手紙を出して選挙ポスターを撮影しました。


051 (16)   夏の終り shiga Hikone
太陽賞で審査委員長の伊奈信男氏は太陽の紙面で総評を次の様に記しています、太陽賞のマツシマススム琵琶湖私景冬から冬は初雪の伊吹山から始まって初雪の南浜及び残月の琵琶湖で終わっているのであるが場所は湖北と湖西が多い様である。 しかし琵琶湖のことについて、あまりよく知らないものにとっては、これが琵琶湖だと知られるようなものは極めて少ない。 伊吹山・魞網・レーク唐崎のヨットハーバー・近江舞子のバンガローくらいなものだろうと思う。 作者は琵琶湖とは、私自身の心のより所と云おうか、いつまでも、このままであってほしい。自然と対話しながら美しい琵琶湖が、都市・科学・文明・巨大・無秩序に負けないでいてほしいと思うと書いているが、たしかにこのシリーズの画面には、そのような都市化的な、あるいは文明的な様相を持っているのは少ない。 私はここに、湖畔上に出来た雲・時雨・冬雲・雪道・湖の古木と鳥・ヨシ・白鷺と水郷・カモメ・弁天浜の朝・雨天の湖畔・珍しい鳥をながめる猫・黄昏の湖畔・夏の終り・魞に残光おおわれ・樹木が立ち・夕暮れに鳥がねぐらに帰る等、琵琶湖の風景を見るのである。琵琶湖の私景とは何であるかを見せようとした、この作者の表現の仕方は適当であると思う。いわゆる琵琶湖らしさを示すものはあまりないが、そこに描かれている雪や、鳥や猫などは、すべて琵琶湖にかかわりがあるものとして捕えられており、いわば琵琶湖の象徴である。 湖東黄昏の湖畔・夏の終りを見たとき、特にその感じを強く持った。 この画面で、夏の終りを表現しているのは、老いたる向日葵の花だけである。 全体を見ていて、作者はこの様な象徴的なものを発見するのに、大変苦労したのではないか、という気持ちを持った。 やはり寝屋川市という、琵琶湖に近いところに住んでいるからできたのではないか、作者は自分がレンズを通して見た映像の心情的表現を破らないように、色彩の基調、ブルー、あるいはダークブルーのような落ちついたものとし、時には弁天浜の朝や雨天の湖畔のように変わった色調を用いて、全体の単調な色彩に対してアクセントを付けている。これは作者の私景であるばかりでなく私自身も、ここへ呼び寄せたものとして、心象風景的なルポルタージュとして推賞し得るものであった。
・・・(伊奈さんの記事です)・・・


051 (18)    ねぐらへ shiga Takashimashi
ねぐらに帰るガンだと思う!! ストロボ光で手前の樹に発光した。 手持ち撮影でシャッター、スローの1/4だった、夕焼け空の樹の上部はスローの為に樹が動いてムラになっている。 鳥は合成した、当時(1978年)アマチュアが合成出来る技術は殆んど少なかった。 モノクロ(白黒)の合成は写真の歴史上早くからあった、師匠の青木君夫先生の名作フーセンガムの少女は私が15才あたりの時、学生時代フォトアート誌で見たのを記憶している。 大阪の有名写真家高田誠三氏も奈良の鹿と残月の合成作品が脳裡から消えていない。 1974年ミノルタロッコールクラブの例会で写真家の植田正治先生が私の作品ひまわりと少年の合成作品を見て・・・合成の方法を教えてと大勢の前でおっしゃった、その言葉を横にいた川上緑桜氏が聞き・・・先生に後から教えますと皆の前で言ったのを鮮明に覚えています。私と植田先生との思いでは10回位お逢いした中で一番の印象です。 生徒さんに自慢話を常にしています、何度か後日お逢いして物静かな紳士でした。 お茶もさせて頂き、関西からも植田先生を敬愛する作家も多い、1975年、私がカメラ毎日年度賞作品もカメラ毎日で評された、またフォトアート誌では丹後の舟屋の1等作品をおとぎの国と評して頂き、頭の中から植田評を忘れる事はない。40年経っても思い出として永遠に残っている。


051 (19)    飛び立つ shiga Imadu
第25回二科展入選作です。 太陽賞は入選作も可だった、他の応募者の方は殆んど写真集とか個展の作の応募が当時多かったと聞く。 私も30枚の組作品は8年間の力作を集め、 あらゆるテクニックを結集した最大の作を130枚4切に制作して30枚に絞った。 絞る段階で季節感と琵琶湖の今、置かれている問題水質の悪化・開発による自然環境等を考えながらイメージを工夫した。 私も太陽賞の応募は全力投球、人生最大の賭けだった。 またこの作品も合成です、合成も分かる人いれば分からない人もいる、この作品は最近まで合成とは私も言ってなく、誰も気付く方はいなかった。 現在デジタル時代になり、私の教室の生徒さん100人程の中で1割位の方が合成をされている。 ストレートが私は良いと思うが? もう一味付けたい場合は合成も役に立つと思っている・・・私は太陽賞迄では良く合成したが、その後、合成はしない様に私自身はしている。


051 (20)    黄昏 shiga Otsushi
1972年頃の琵琶湖大橋です、現在は2本の道路になっています。 この作品も合成です、第1原版は琵琶湖大橋のみ、第2原版は昭和の電柱外灯を合成しました。
外灯の原版はスローシャッターで動かしたテクニックです。 太陽賞の作品30枚中、11枚に及びます、恐らく太陽賞受賞作の中で例外中の例外位だと思う!!
審査員の篠山紀信氏は太陽の誌面の評で力作に違いない、この湖を力でねじふせて写真にしてやろう云う技があれこれ困った、と書いてある。
準太陽賞の若目田幸平氏の女たちの下町を篠山紀信氏は支持されていた。
同じく石本泰博氏も私の合成作品にテクニックのたしかさを見せているが、芸術意識が勝ちすぎていると苦言されていた。
他の審査員の票が私に多かったので決まったと思う。
更に、伊奈信男審査委員長が強く私の作品を支持された事で太陽賞は決まったのでしょう!! 後日、編集部の方に聞きました。


051 (21)    湖上の虹 shiga Makinocho
虹の作品は現在まで数多く撮影して来た、過去52〜53年、琵琶湖をテーマに通っていると、雨の後は良く虹を見たが写真を撮りたい虹は少なく、条件の良いハッキリとした虹は撮影した。 私のギャラリーの中に虹の作品を数多く出品していますので見て下さい。 この作品の虹は奥びわ湖の山に這う様に出ていて、それ迄の虹とはまた違った味がした。  湖上の虹は沢山あったが! あえてこの作品を選びました。 ブルーの色が綺麗に撮れていました。 望遠レンズはレンズメーカーサン(サン光機)のレンズを使用しました、 当時サン光機は各メーカーのレンズだけ作る会社でした。 価格が安いので購入してサンフォトクラブにも入会、サンフォトグルッペと云うコンテストもありました。 第25回サンフォトグルッペフォトコンテストで5席(5位)になった思い出が・・・審査員は関西の巨匠岩宮武二氏、1位は蜂須賀秀紀さん・2位藤田和宣さん・4位有野永霧さん・5位は私・6位大井通孝さん、大井さんは父親が大井スタジオ(柏原市)のスタジオ営業、私が1年間お世話になった息子さんです。 7位竹中秀夫さん・8位佐藤泰三さん・9位森井禎紹さん等々、その頃のアマチュアトップクラスの人達がこのコンテストに応募されていた。 サンレンズの広報をされていた方が、フォトコンテスト月刊誌を創立。 初代の編集長が河野真進氏に良く可愛がって頂きました。 太陽賞の作品でニコンサロン銀座で個展をしていた際、編集長に来て頂き、夕食をご馳走して貰った上にホテル迄タクシーで送って頂きました。 恐縮して今なお、その事は思い出になっています、編集長ありがとうございます。


051 (22)    台風の真野浜 shiga Outsushi
台風の時でした、台風は喜んで撮影に行きました、波がより高く荒れた風景が撮れたからです。 当日トビが波に打ち上げられた小魚を狙っていました。 私が近づくと鳥は離れます、 やむを得ず鳥を合成しました。 画角は臨場感を出す様に斜めにして、レンズはワイド24ミリを使用、寝転んでローアングルから撮影しました。 台風を、数回体験したが・・・危険に付き、皆さんにはおすすめ出来ません。 琵琶湖では湖に入ると危険ですが・・・湖岸では5m程の波になります。 台風を太平洋・日本海・大阪港と体験して思いますが、5mだった波が何十回に1度、2倍に達したからです。波にさらわれるとはその事を言います、ぜひ台風の時は安全の為ひかえるのが賢明だと思っています。私も1度、大波をかぶりカメラも台無しになった思い出が・・・。


051 (23)    唐崎のヨットハーバー shiga Outsushi
ヨットハーバーのテントに魚の屍が浮いていた。 ワイドレンズで撮影、多分、鳥が落したのだと思う!! 琵琶湖の将来が危いと云うイメージで組み込みました。 人間も同じ事になりますよ!!・・・ 日本の経済が万博以後良く成り、公共事業が全国で限りなく進む・・・乱開発が行われようとしていた時代。 琵琶湖総合開発は20年間だった昭和48年(1973年)スタート・・・平成4年(1992年)に及んだ。 太陽賞の審査員の先生方は日本一の湖をテーマにした、私の作品を通じて私の心象の思いが通じたと、私は勝手に思っている。 この湖を守って行かなくてはならない・・・近畿の水がめ、命の水です。 何百年、何千年と続く、日本一美しい琵琶湖を大切にしたいと云う・・・希望です。
1978年頃は現在のダイレクトプリントは無く直接出来なかった。 スライド(アナログ)フイルムよりわざわざネガを作った(インターネガ)、35mを4×5に拡大した。 1枚当り約3000円、2L(K)プリント(1200円)・4切(3000円)、プリント1枚で7200円必要でした。


051 (24)    バンガロー shiga Shigacho
資金ショートした幽霊ビルや倒産したバンガローが湖岸に放置されていた。 私は赤外線フイルム(コダック)を当時良く使用、ラボ(現像所)によると日本で一番使っ
た人だと言っていた(約2000本)。 緑が赤くなり、白色は協調されて、生味の色彩でなくびっくりする程の違ったフイルムだった。 30枚の中に1枚入れて審査員を
驚かせようと思った。オドロキである、何だ!!どうして!!そんな、おどろきである。 現在なら普通だが!!1978年はカラー化が進んで約10年、まだ当時は
カラーの色彩そのものが普通だったのです。 以後、広告の世界では色々なテクニックが発表されて行きました。 空の色も主題を生かしテーマ全体の中のイメージが
出て 私自身、内心期待をしていました。 太陽賞の応募者の方々は主にモノクロ(白黒)が多く、人間を主題のドキュメンタリーが多いと聞く・・・その中で
カラーの風景でチャレンジするのも珍しいらしい?・・・意表をついたかも!!・・・審査員がオドロキを感じたのでしょう!!


051 (25)    冬日 shiga Hikone
12月の初旬だった、彦根市周辺で良く見かける風景です。
漬物用だと思う、初冬の風物詩として琵琶湖では有名で、各家庭でも軒下や・・・近所の湖畔に良く干していたが・・・
近年少なく、殆んど見かけなくなった。 鳥は私の得意の合成です。 琵琶湖のイメージとして鳥(トビ)を配した、
私は鳥が好きです。 現在でも鳥が良い状態ならシャッターを押しています。
また北海道まで足を伸ばし、道東のオオワシ・オジロワシを毎年冬になると出掛けています。 ブルートーンは美しいと思います、
寒々とした風景と季節感の作だと自分では満足しています。 現在では殆んどこの風景も無く撮れません。


051 (26)    魞と残光 shiga Kohoku
湖北とは、私の中で彦根・長浜・奥びわ湖だと思っている。 琵琶湖の北の方を勝手に湖北だと周りの人達に言っているが!! 正確には知らない。
秋から冬の琵琶湖は天候が変わりやすく、変化があって私は好きです。 コピーライターの今西彗さん、京都の有名人で人間動物園を創って(自分のスタジオ内)
話題になった。 KBSラジオでも御自分の番組をお持ちになっていて・・・私もゲストに呼ばれた思いでが・・・今西さんとの出会いは、この太陽賞でした。
月刊太陽の本を見て、お手紙で作品を荒々しい琵琶湖と表現されていた。 何時か、私とコンビで仕事をしたいとの事だった。
5年後粟津潔さんら4人のコンビで滋賀県の観光ポスター4作だった。 ダイナミックのポスターで周辺に40点を配した粟津流デザインでした。
周辺の40点は当時、京都芸術短大のデザイナー久谷政樹氏が選ばれた、グラフィック年鑑にも収蔵され海外からも引き合いに来た。
私にとって最大なるポスターとなった、更に太陽の雑誌にも大きくグラビアになり、皆さんから羨ましがられた。


051 (27)    時雨の夕照 shiga Hikone
夕照の中の時雨である、ドラマチックで色彩も一番良い頃です。 素直な夕陽も良いが私はこの様な激しい変化が好きです、私は当時アマチュア作家、二足のわらじのサラリーマンと写真業、それでも月4回、この様な風景に出合うには2ヶ月に一度程、それも自然の世界なので2ヶ月に一度も会わない時も、この時もフイルターを多数使用。 この色合いはフイルターメーカーには無く、私がラボの技術者だったので、仕事の中で使用していた、4×5のマゼンダフイルターだった。 だから知っている人はラボの技術者だけ、プロ写真家でも少人数だろう?と思っている。 テクニックはフルに使用し、あらゆる努力をして絶対に太陽賞を頂くと云う気持ちは強かった、それだけに自信もあった。 周りの人達、特に先輩西嶋保介氏と第11回太陽賞の先輩吉田一夫氏には直前見せていた、自信に満ちていたのである。


051 (28)    夕暮れのねぐら shiga Kotou
暮色に鳥(トビ)が集まっていた、寒々とした冬日・・・私は鳥が好きなので鳥が居るのは、良く自然だからと言っていた。
私は鳥たちの自然が好きだと勝手に思い込んでいる。 朝日ソノラマの編集長だった白井さんに取材を受け、
その事を伝えカメラ誌に白井さんは、その様に書いていた。
私のギャラリーを見て分る様に(白鷺・アオサギ・ゴイサギ・アマサギ)他、琵琶湖で見かける鳥類を数多く発表していますので、御覧下さい。
特に竹生島は1984年以後、白鷺はコロニーを作っていないので重要です。


051 (29)    初雪の南浜 shiga Nagahamashi
当時ポプラの樹が沢山南浜で見かけた。 12月初旬、初雪が降り私は湖北に出かけた、真先に南浜に立ち寄って雪のポプラと、左側には大根が干してある風景を撮影した。 ブルーフイルターの濃いのを使用、太陽も上部に配し、レンズはニコンのワイド20ミリを使用した、作品はかなりの自信作でした。 太陽のグラビアでも採用され、後日絵はがきも制作した。 1978年 2月、平凡社 太陽の編集長中村新珠氏・作家でもある海野弘さんから電話で太陽賞に成ったと連絡が・・・その日の嬉しさは何倍ものだった。
早速西嶋保介氏と吉田一夫氏にも電話した、翌日、光芸クラブの安田稔(穫史)氏からも・・・おめでとうの電話が・・・
共同通信社兼村記者から、写真界の芥川賞の太陽賞取材させてと電話が有り、山本カメラマンと2人で来られた。 後日、全国の新聞記載の40部が送って来た。
私の写真人生の中で最大なる感動でした、カメラ誌にも全社、トピックスとして載った。
日本カメラのタイトルは月例作家2人が太陽賞と・・・若目田さんはアサヒカメラの年度賞、私は日本カメラの年度賞だったからだと思う。 1979年4月5日発行のアサヒカメラ別冊4増刊35ミリ一眼レフのすべての中記事で、評論家桑原甲子雄氏が1978年の写真賞について、太陽賞は(平凡社)はマツシマススム第15回をむかえる。 プロとアマチュアを問わず一般公募の形式を取っているのて、シリーズ写真(組写真)に限る。 講談社、出版文化賞富士治夫氏・日本写真協会賞は枚方の田中幸太郎氏・秩父の顔で南良和氏・昆虫で有名な栗村彗氏・伊奈賞は土田ヒロミ氏・木村伊兵衛賞は栗原新也氏。 一流作家の人達でした。


051 (30)    残月の琵琶湖 shiga Kohokunofuyu
太陽賞の応募規定に組写真によるフォト・ストーリーを追求する事によって写真界に新風を吹き込み、合せて有能、清新な新人の登竜門となることを期待して設けています。
既に受賞作家として荒木経惟・昆田享・南良和・本橋成一・佐藤元洋・黒田靖夫・土田ヒロミ・古林洋・吉田一夫・鈴木龍一郎・比嘉康雄氏など、いずれもその将来を嘱望される新進として写真界で活躍しています。 太陽の大きな紙面と鮮明な印刷に相応しい優秀な作品をお待ちしていますと、記してあった。
私の次、第16回は野鳥写真家で超有名な嶋田忠氏だった。
その後33年続き多くの写真家を世に送った。 評論家重森弘庵氏はカメラ毎日で写真界の芥川賞は太陽賞と日本写真家協会新人賞と云っていた。 1974年、朝日新聞社の木村伊兵衛賞は私の時、歴史は5年程だったが既に写真界の芥川賞として認められている。 土門拳賞(毎日新聞社)は文学界で云えば直木賞だと、私は思っている。長崎の一地方から1人で大阪に出て、写真のプロを目指し太陽賞を受賞し大阪日日賞(大阪日日新聞社)、滋賀県からブルーレイク賞まで頂き、花博では日本の花と自然を撮影する写真家43人に選ばれ・・・個展も数多く経験。 現在はネットのホームページギャラリーに2000点近く、過去の発表作品を含め、幅広く公表している。
  人生振り返れば楽しかったです。 無理に写真にお金を使ったが!! 大満足している。 今後も、許す限り琵琶湖は撮影しながら記録します。
恐らく死ぬまで?足が動き、車の運転が可能まで・・・!! 写真の好きな人達も、私の様に楽しんで下さいネ!!

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