光る棚田
※作品は左から右に並べて展示しておりますので、
画面左下のグレーのスクロールバーをクリックしたまま
右にスライドさせてご覧ください。
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021 (1) 円田の初期 Wakayama Aridagawacho Shimizu
和歌山県有田川町清水大字1の円田です。
現在あらぎ島と呼んでいますが当時は、その言葉はあまり使われていなかった。
1964年 写真のプロを目指して大阪の写真学校(日本写真学校)に入学した頃、アルバイト先の先輩から西嶋保介氏を紹介され、
現二科会会員 ・ 青木君夫先生の当時大阪キャビネクラブ(白百合会)に入会して写真学校と両立しながら勉強した。
案内して頂いたのは1964年5月だったと思う!!(1964年5月 ・ 撮影)。
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021 (2) 田植えの頃 Wakayama Aridagawacho Shimizu
私は当時、大阪の人の多さと街の雑踏の風景にストレスがたまり困っていた、
写友の先輩西嶋氏が関西の色々な名所をひと月一度位案内して頂いた。
当時カメラ誌はアサヒカメラ ・ カメラ毎日 ・ 日本カメラ ・ フォトアート ・ フォトコンテスト、更にカメラ芸術と6誌あったと思う。
フォトアート誌が土門拳さんに関係していたと聞き、フォトアート誌を当時重点に置き入選したのも良き思い出になっています(1965年5月 ・ 撮影)。
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021 (3) 整列 Wakayama Aritagawacho
当時はまだ現在の様に機械も無く手作業であった。
円田の中を中望遠レンズ(200ミリ前後 ・ サンズームを使用)で作画した、私が最初に棚田を好きになったのは旧清水町の円田からである。
現在でも年、数度だけだが?訪れている、日本の原風景が残っている名所だと思っている。
当時、白黒が6割、カラースライド(アナログ)が4割だった(1966年5月 ・ 撮影)。
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021 (4) 赤外写真 Wakayama Aridagawacho
米コダック社の赤外フイルムです、米軍の軍事用フイルムとして開発されたと聞く、
緑が赤になり当時は異次元のフイルムとして珍しい貴重なフイルムです(アナログフイルム)。 私はアマチュア時代から随分使用しました、当時のアマチュアとして日本一の使用量だと思っています(1972年5月 ・ 撮影)。
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021 (5) あらぎ島 Wakayama Aridagawacho
田植えの頃、毎年訪れていた,時々円田の傍まで車で行ったが、狭くて車と道がギリギリで大変恐ろしい思いをした。
数回行ってみたが毎回冷や冷やのドキドキで喜んで行く所ではなかった、後日車が谷に落下したとも聞いた事がある!!
現在は橋が出来て車も簡単に行ける(1973年5月 ・ 撮影)。
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021 (6) 田植えが終わって Wakayama Aridagawacho
円田を人物が歩いていた、田植えは終わり初夏の美しい風景だった。
当時は道路から撮影、道路は狭く三脚を使用すると危険だった、
現在は撮影用の見学台が設置されて安全になっているが?その当時は今ほど観光に力を入れていなかった、
撮影するカメラマンも少なかった(1975年5月・ 撮影)。
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021 (7) 夕陽の頃 Wakayama Aridagawacho
早朝も数回行って見たが夕景の方が良かった。
フイルターは私の得意、マゼンダ10を使用(ラボ用)、点景に人物を配して当時は良い作品でした。
私はアマチュア時代、円田で合計7点入選したのを覚えている。
同じ場所で7点の入選は私の中で一番多いと思っている、その為か特別気に入っています(1975年5月 ・ 撮影)。
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021 (8) 暮色 Wakayama Aridagawacho
よみうり文化センター時代、三坂康一 ・ 織田清 ・ 池下晴敏氏の3人で共に夜間撮影をした良き思いでとして忘れられない。
円田を池下 ・ 織田氏2人が懐中電灯で約20〜30分歩いて光跡を作り
三坂氏はJPS展で後日、金賞になった(1889年5月 ・ 撮影)。
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021 (9) 光る棚田 Wakayama Aridagawacho
当時、私の写真教室の中で大阪市内のラジオ局内にラジオ大阪カルチャーサロンがあった、
生徒さんの中で和田彰氏は真面目にツアーや教室も殆んど休む事なく良く勉強されていました。
欠点はタバコを良く吸っていて気になっていた、それ以前に同じ教室に川崎哲氏も同じで撮影が終わり次第、一服と毎回だった。
私はコーヒー党、ただし撮影会では多くて2杯、普通1杯ですが・・・タバコの人はひどかった、
心配していた通り肺をやられて2人共、旅立った。
タバコは絶対にダメだと思っている。
関西の巨匠、棚橋紫水氏からお前は「酒を飲むな」と言われたのは1972年、それ以降その言葉を守っている、
私の中で棚橋さんを自分の中で関西では岩宮武二さんに次ぐ写真家だと思っている。
作品は町の子供達が参加するイベント、和田さんはキャノンコンテストで入選した(2000年5月 ・ 撮影)。
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021 (10) 雲間 Wakayama Aridagawacho
雲の間から僅かな太陽の光が差した、撮影は8月の下旬だった。
9月中旬頃が秋の収穫、時々遅く行って見ると収穫が終わった後だった、データを取るために色々観察や経験もしていた。
その頃、棚田の後に橋が出来ると聞き悲しい思いをした、どうしてこんな素晴らしい日本の風景を大切に出来ないのだろうか!!
私は琵琶湖を53年記録している。
全く同じ事が琵琶湖でもあり国の行政や地元の行政の考え方に常に疑問を持っていた。
その後橋は完成した、2001年 日本の棚田百選(1996年8月 ・ 撮影)。
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021 (11) 橋が完成 Wakayama Aridagawacho Shimizu
2006年に橋と道路が出来た、橋が出来ると必ず地元の人は便利になったと言う。
私たち写真家や画家、自然派は必ずその反対側にいる、昔も今も変わっていない。
もう少し山の向こうに・・・山伝いに道路を作れば写真の中に橋が目立たないと思うが?
色々な考え方と予算とか私達に分らない現状があるのでしょう。
この橋が出来てからそれ迄思っていた円田の「あらぎ島」のイメージが私の中でランクが下がった。
丸山千枚田 ・ 九州の棚田が良く見える(2007年5月 ・ 撮影)。
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021 (12) イベント Wakayama Aridagawacho
毎年5月の中頃、町の家族が参加するイベントが続いている。
キャノンコンテストで和田彰さんが入選した思い出もあって、私も期待して注目している。
2017年5月14日、日曜日でした、何時もより多くの人達で賑っていた。
デジタルを2007年頃から使っています、キャノン40DとキャノンEF17〜35のズームで撮影、橋を目立たぬよう濃くパソコンで調整した。
棚田は日本の100選に選ばれている(2017年5月14日 ・ 撮影)。
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021 (13) 秋実る Wakayama Aridagawacho
アナログフイルムです、私のギャラリーの作品は90%がアナログのフイルム。
デジタルは10%です、色とコントラストが全然違います、鮮やかさもまた深みもあります。
私の中でまだアナログのフイルムに心残りだと?・・・9月上旬 雨上がりでした。
台風の多い季節、日高川の水量も多かった(1996年9月上旬 ・ 撮影)。
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021 (14) 秋の気配 Wakayama Aridagawacho
9月23日 彼岸の頃、彼岸花が所々に咲いていた。
道端にも数個、私は左手に花を持ち前ボケ技法で作画、秋のイメージを考えた、
然しこの技法は50年前から時々使用しているが・・・ 成功したのは少ない。
同じ所に何十回も行くと変化を求めるもの、その考え方でした。
佐渡で当時ニシムラユウジさんに教えて季刊風景写真に入選が思い出(2003年9月 ・ 撮影)。
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021 (15) 雨上がり Wakayama Aridagawacho
数時間前、雨だった。 撮影の時は雨が上がり棚田全体が光っていた。
天日干しの上に近年ビニールが見える、以前は見かけなかったが?全国的に多くなっている・・・
9月はこの円田の他、佐賀長崎と九州方面に棚田の風景を求めて良く撮影旅行しています。
2007 ・ 2009 ・ 2011 ・ 2013 ・ 2014 ・ 2015 ・ 2016 ・ 2017・・・私は九州が好きになっています(1999年9月 ・ 撮影)。
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021 (16) 収穫の頃 Wakayama Aridagawacho
初めて訪れて約53年、毎月同時期に・・・ 田植えの頃と収穫の頃を中心に訪れている。
円田の上にAPA会員の榎本氏が住んでいたと聞く、関西の有名な作家、山本健三氏のアシスタントして独立したと聞く、APA会員の同期でした・・・
APA(日本広告写真家協会)の団体です・・・或る日訪ねたらお母様は元気で昔、教師をされていたとか・・・
私が撮影に行くと伝えると彼は円田を毎日見ていたから珍しくないと云う。
琵琶湖でも地元の人に話を聞くと同じ言葉が出る・・・(1995年9月 ・ 撮影)。
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021 (17) 天日干し Wakayama Aridagawacho Aragijima
1997年発行の素晴らしい自然43号、日本写真企画「フォトコン」で有名な東京の写真雑誌社が
当時、素晴らしい自然と云う大型(月刊誌より大きい)の風景 ・ 自然雑誌が人気だった。
1997 秋43号特集記事、日本の棚田 ・ 畑を撮るの記事を依頼された。 編集人は大藤貞男氏、
棚田と畑の撮影の文と写真合せて6ページ、作品は14点掲載されました、
また公募作品の審査と合わせて講評記事12ページと私の写真生活の中で執筆したのは多い方でした。
美しい自然36号(1995)ではテーマ現意図で露出のコントロール、
7ページ15作品と多い記事を執筆、過去二度とも素晴らしい自然だった!!(1988年秋 ・ 撮影)。
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021 (18) 2016年の秋 Wakayama Aridagawacho Ishitanichiku
最新(2016年10月)です、天候は曇り、雨後でした。
以前の作品と風景の変化は後方の橋が目立ちます、撮影ツアーで訪れました。
50年以上多くのアマチュアの方、教室の生徒さんを案内、私の自慢の被写体地です。
フォトコンの素晴らしい自然と三坂氏のJPS金賞との思いでが私の中で最大でした・・・
丸い棚田は最高の被写体です(2016年10月 ・ 撮影)。
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021 (19) 秋の収穫 Wakayama Aridagawacho Kusumotochiku
近年大阪から阪和道の海南東から生石高原(県立自然公園)を目標に車を走らせて札立峠から二道に分かれる、
私は昔から左手の山道(180号)を通常に楠本 ・ 沼地区の棚田を良く撮影していた。
時代の波だろうか?だんだん棚田が失われて少なくなってきた、多分、後継者が町に出て棚田の作業が大変だと思う!!
少しづづであるが毎年のように少なくなり私は悲しい気持ちになってきた。
楠本辺りが特に棚田の放棄が多く見られる(1983年秋 ・ 撮影)。
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021 (20) 手作業 Wakayama Aridagawacho Numachiku
段々畑に実りの秋、御夫婦だろうか?農作業をしていた。
当時、農機具は使用してなく・・・大変だなーと思う気持ちで撮影していた。
ここ数年は作業も少なくなり段々畑の稲作が減ってきている。
私は時代とは云え日本の原風景の棚田は是非残して欲しいと思っているが
そうも言えない現実が里山には残っている(1985年秋 ・ 撮影)。
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021 (21) 棚田を対岸より Wakayama Aridagawacho
札立峠から左手の山道180号より望遠レンズ500ミリで撮影した。
山道を走っていると右手の対岸の山手が黄金色で光っていた、
然しここ数年この姿も無くなって、以後シャッターを押す事も無くなった。
思い出は頭の中にあって・・・この日以来カメラを出す事も無い、過去を思い出す(1986年秋 ・ 撮影)。
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021 (22) 棚田と彼岸花 Wakayama Aridagawacho
畦道に彼岸花が美しかった。
美しい自然の記事で赤い道のタイトルで秋になると棚田の畔を彼岸花が彩ります。
彼岸花の朱色と黄金色の稲穂との対比が美しく写欲をそそります。
画面の変化を付ける為に彼岸花のラインを斜めに取り入れました、
更に望遠レンズで部分的に切り取る事で画面外の広がりを表現しています。
全体的に明るさが均一でコントラストの低い条件なので中央重点測光とし、
プラス補正でやや明るいイメージにしていると記事に書いています。
近年この写真と同様な作品は撮れていません(1984年秋 ・撮影)。
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021 (23) 段々畑 Wakayama Aridagawacho Numachiku
沼地区は私の中で最高の被写体地として自慢の棚田でした。
多くのカメラ誌に撮影ガイド記事も書きました、その自慢の棚田が少なくなり消えて行く・・・
こんな悲しい事は撮影に行ってもシャッターが押せないのは辛い事です。
皆さんを案内しても昔の話だけ・・・思い出を案内するだけで、少しでもシャッターを押せれば良いのですが?
白鷺のコロニー竹生島同様、素晴らしい自然の世界が消えて行くのでしょうか?
私の53年の歴史の中、好きな風景がだんだん失われて行く・・・(1983年秋 ・ 撮影)。
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021 (24) 水入れ Wakayama Aridagawacho Numachiku
No23の段々畑とこの作品は同じ場所、アングルを変えて季節は田植えの前、整地して水を入れた時でした、
私はこの作品と被写体が好きです。
撮影ツアーで全国色々回っていますが、この棚田のリズムは数少ないと思っています。
良い棚田です(1982年4月 ・ 撮影)。
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021 (25) 田植え終えて Wakayama Aridagawacho Numachiku
同じ場所を連続4点中の3点目、同じ棚田ですが背景の村を入れて見ました、
その代り棚田のアングルは良くないと思います。
この棚田も道路から見えますので長い期間見続けていますが・・・
同じように棚田の数が少なくなってきました、悲しいです(1981年5月 ・ 撮影)。
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021 (26) 夕暮れの光跡 Wakayama Aridagawacho Numachiku
この作品も同じ場所です。
私は写団寝屋川と云う写真クラブを主催していました・・・現在も細々と運営していますが・・・
クラブ員の中に元気な方がいて棚田を歩いてと頼んだら快く引受けてくれました。
アナログ時代フイルムですのでシャッターはバルブで約20分間でした。
棚田と云っても傍に寄ると高く上り、下りは大変でした。
また蛇の多い所です、この作業も一度だけですがこの様な作画はあまり世の中では少なかったと思っています。
夜の撮影は現在のデジタル時代に比べて当時は、数段高度の難しい技法であり難しい時代でした(1982年5月 ・ 撮影)。
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021 (27) 手作業 Wakayama Aridagawacho Numachiku
素晴らしい自然の59ページに類似を発表しています。
画題は段々畑、記事では人物の動きをポイントに段々畑を上部から俯瞰して撮影、
山深さを表現するために左上に谷間との境界線を斜めに入れたと私は書いている。
当時の作品を撮影して40年以上になっても同じ考えです。
写真とはその時間は二度と戻って来ない(1979年5月 ・ 撮影)。
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021 (28) 村の仲間 Wakayama Aridagawacho Numachiku
素晴らしい自然に類似を発表、画題は田植えの頃。
記事では棚での田植え風景を説明的に描写した、明るい方が雰囲気が出るのでプラスの補正で撮影している。
左上の農夫の位置に注意、その影が水面に映り込んだ時にシャッターを切った・・・と私は読者にアドバイスを書いている。
今見ていると下の段に6人〜7人、村の人達で当時は皆が協力しての農作業だったと思っている、良い時代。
私の中で現在思うのはその後この様な作品に巡り合っていないので名作だと思う(1978年5月 ・ 撮影)。
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021 (29) 孤独 Wakayama Aridagawacho Numachiku
素晴らしい自然の本の中で1点、上のアングルから撮影したのを発表している。
この作品は下まで下り田植えの畦道から山合いを入れてワイドで撮影、当時はこの様な風景も少なかった。
画題は手植え、今では珍しい竹竿を使う光景をワイドレンズで作画、
背景の棚田を生かすため、広角レンズを使い絞り込んで被写界深度を深くしたと記事に書いている。
現在は殆んど手作業を見る事も少なく機械ばかりが目に付く・・・(1977年5月 ・ 撮影)。
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021 (30) 山の谷間 Wakayama Aridagawacho Numachiku
素晴らしい自然、東京日本写真企画の出版1997年43号、60ページのタイトルは手植え、
竹竿を使って位置を確認しながら田植えをする姿に古来の伝統を感じます。
レンズは広角20ミリを使用、絞り込んで手前から遠景までピントを合せたと表現しています。
作品は道路の上から身を乗り出して撮影した。
今ならデジタル時代、眼から離して更に腕を張出して撮影可能・・・シャッターを沢山切れるし、アナログのフイルムと違ってそんなに費用も必要ない。
写真に取って良い時代になりました、当時は私の場合1日でフイルム10本〜20本(600枚撮影)で3万円、
フイルムと現像代が必要・・・ただしツアーの皆さんは平均5本で150枚撮るのが普通の時代でした。
今では考えられない良き時代ですよ・・・デジタル撮影は皆さん一日平均1000枚前後、撮影しています(1980年5月 ・ 撮影)。
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021 (31) 機械導入 Wakayama Aridagawacho
写団寝屋川クラブ時代の会員、田中恒次さんと一緒でした。
田中さんは川向こうの高槻市より写真の勉強をしに来られて、あの三坂康一さんのJPS展金賞の棚田より10年も前に
私の最初の作品、あらぎ島の夜景を一人で棚田を歩いて作画に協力して頂き感謝の気持ちでいっぱいです。
田中さんはこの作品と同様な作品で素晴らしい自然に入選された。
これも思い出、アナログのタングステンタイプでした。
棚田もそろそろ早い所は農機械の導入が始まった。
昭和40年代は全国で300万台だったと!!
ここ有田川地区では他の農地よりだいぶ遅れていたと思っている(1984年5月 ・ 撮影)。
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021 (32) 水入れの頃 Wakayama Aridagawacho
この作品は現在の有田川町(旧清水町)の円田(あらぎ島)の途中で撮影・・・50年前の事です、
この地で多くの作品を創り残しています・・・ 私にとって原点ともいえる作品です。現在は面影ひとつも残っていません、残念でなりません。
またこの地で作品だけは数多く残っています(1968年5月 ・ 撮影)。
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021 (33) 歴史残る Wakayama Aridagawacho Kusumotoshiku
思い出だけが残る、私にとって名作の名作?写真学校入学の時代(1964年)オリンピックが東京で開催。
新幹線が開通した年、写真家の土門拳さんが私にとって一番の写真家、土門さんのリアリズム運動はまだ失ってなく多くの影響を受けた、
その流れの中で少しでも土門さんのリアリズムに近づきたい作品でした(1965年5月 ・ 撮影)。
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021 (34) 雪の丹後 Kyotofu Ine-cho Arai
丹後も西島保介氏先輩から教えて頂いた。
先輩は1964年青木君夫先生のクラブと秀影クラブ(旧エリモ8ミリクラブ)も紹介された、秀影は1966年頃一度入会したが結婚して直ぐ休会。
万博後商売の写真業が反映して5年ぶり秀影に再入会、最初の参加はいきなり宿泊撮影会でした、
通常は例会に行くのですが・・・ 私は皆さんを知っているし、また5月の連休で参加しやすかったので
久しぶりの撮影会にハッセルブラット500CM(当時38万円)で撮影、フジの8ミリエイト迄自慢の豪華版でした。
作品は30年前ニシムラユウジさんがフジコンで銀賞になった(1986年冬 ・ 撮影)。
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021 (35) 日の出の棚田 Kyoto Ine-cho Arai
ハッセルブラッド500CMと35ミリを使用、ハッセルで撮影した作品がいきなりニコンコンテストに入選し、
ニコンコンテストは他社のカメラでも受け入れる大きな器でした。
35ミリカメラではフォトアート誌に入選しあらぎ島同様、数多く入選した、忘れられない思い出です(1973年5月 ・ 撮影)。
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021 (36) プロのまねごと Kyoto Ine-cho Arai
自宅では写真店を1967頃開業(電気通信大学近くのサンエーストア)、
万国博もあって世の中、白黒からカラー時代へ皆さんカラー写真のブームでした。
ハッセルブラッドも買いましたが交換レンズまでは手が出ず、標準レンズプラナー80ミリ一本で撮影しました。
ニコンで入選し、太陽酸素の社内報の表紙に数年採用されました、
でも当時はプロではなく写真業をしただけでプロの予備軍と云った所でした。
プロを目指しても当時、簡単にプロになるのは難しい時代だったかも!!
プロと云える団体はAPA ・ JPSだけです(1973年5月 ・ 撮影)。
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021 (37) 棚田と光跡 Kyoto Ine-cho Arai
あらぎ島と同じ技法、丹後の千枚田でも同様に考えました、初雪を待ち、車のライトを照射した。
今回タングステンではなく日中用のノーマルフイルムを使用し早朝撮影でした。 プロになって千里よみうり文化センターの生徒さんやマイたうん撮影ツアーで案内した、
私にとって充実した撮影人生、良く写真もリースで良く売れました。
自分でライブラリーを開設、日本写真企画の河野編集長から撮影ガイド記事を良く依頼されて
関西でも高田誠三 ・ 山本健三 ・ 森井禎紹さんに次ぐ仕事ぶりだったと思う?(1987年冬 ・ 撮影)。
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021 (38) 光る棚田 Kyoto Ine-cho Arai
新井の千枚田(丹後) 中望遠で撮影、アナログフイルムでF11 ・ 3分位でした、写団寝屋川、よみうり文化センター時代です。
1978年太陽賞受賞後、直ぐプロに転向APA会員、その後JPS会員として撮影ツアー、写真教室の講師、
撮影したフイルムを貸し出すライブラリーを開設した。
1977年迄お世話になった写真クラブも撤退した。
先輩の西島保介氏とも1978年以後は一度も撮影に行っていない。 40年の歳月が過ぎ・・・胸の奥には色々と案内して頂いたのが忘れられない大恩人です。
感謝しています(1983年3月 ・ 撮影)。
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021 (39) 光の新井棚田 Kyoto Ine-cho Arai
光跡と同じ場所です、丹後の千枚田は当時道路は無く、下まで千枚田が続いていました。
海岸線に道路が完成と共に千枚田は1/3少なくなり、千枚田のイメージは又この丹後でもあらぎ島と同じ様に消えました、残念に思う。
多分全国いたる所も同じ様に自然がだんだん消えて行くのかもしれない!!
私の中で分かっているだけでも20ケ所以上あります(1974年冬 ・ 撮影)。
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021 (40) 変化する棚田 Kyoto Ine-cho Arai
新井の千枚田の近く、新井の漁港に下りる左手に棚田が今もありますが残念な事に整地されました。
いったん棚田を取り壊し区分けして現在は綺麗になっている、
農家の方は整地されると皆さん喜んでいますが?私達写真家はありのままの自然が良いので作られた自然は魅力が全くありません。
その後シャッターを押すのが少なくなった(1969年冬 ・ 撮影)。
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021 (41) 夜の千枚田 Kyoto Miyazushi Kamiseya
丹後の被写体地は数多くあり私の様に丹後の好きなカメラマンにとっては有難いものです。
舟屋 ・ 漁港 ・ ウミネコ ・ 棚田と被写体は多く、私の中でも自慢の被写体地です。 数多くカメラ誌にも撮影ガイドを書きました。
上世屋から木子にかけて皆さんを案内しています。
アナログ時代に夜の棚田を撮影、当時は茅葺の民家が点在していましたが現在では数少なくなっています。
トタンが被さり面影は少なくなりましたが・・・過疎のイメージは続き私は何となく好きです(1971年5月 ・ 撮影)。
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021 (42) 初雪 Kyoto
撮影ツアーです、地元に宇野伸一さんの実家が伊根にあり宿泊先の民宿を紹介して頂きました、民宿、片岡さんです。
車2台で10人程で撮影、宇野さんが案内してくれました、宇野さんとはフジカラー中央現像所時代(一時的同僚)から
仲良くなり、また彼もコンテストや個展もする他、宝塚歌劇団の舞台写真も撮影していました。
その頃私は、女性だけの写真クラブ ・ フタバ会を作りそのクラブ員の鈴木あや子さんが季刊風景写真雑誌の初期、
山本健三先生の審査で優秀賞を受賞し見開きページで大きく掲載されて話題になりました。
風景写真の雑誌は風景だけの専門雑誌として少しずつ人気になり今では風景写真家の中で有名になりました。
初期の風景写真雑誌にも私の所の生徒さんが 数多く活躍したのも良き思い出です。
季刊風景写真は1988年前後頃スタート、三坂さんは風景写真雑誌のA部門で年間最優秀作品となった。
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021 (43) 撮影ガイド Kyoto Tango Peninsuia
丹後半島を案内出来るほど詳しい方だった。
日本カメラフォトコン別冊 ・ Kodakのカプセルと常に丹後を案内していた。
勿論、新井の千枚田 ・ 上世屋 ・ 舟屋 ・ ウミネコの乱舞の風景と関西で丹後の案内は私が唯一多かったと思う。
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021 (44) 丸山千枚田−1 Mieken Kiwacho
三重県の丸山千枚田も私の得意としていた、初代棚田の会長さん、北富士夫氏とも久しくなり年賀状も交換している。
マイたうんの山本久右衛門さん(2017年で97才)も数回案内して、よみうり写真コンテストや棚田のコンテスト、
更にモデルで二科展や国際サロンまで入選、山本さんは凄い人だと思う。
90才越えてもまだ現役の写真家、2017年10月に北海道ツアー参加で33回目の参加、
北海道撮影ツアーの作品でグランド北海道写真集を完成されました(日本写真企画10月発行)、
是非皆さんも写真集をお買い求めください・・・驚きの方です。
私は生徒さんであっても尊敬しています、山本さんに人生学を学ぶ所が多い(1996年5月 ・ 撮影)。
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021 (45) 丸山千枚田−2 Mieken Kiwacho
モデルは北さんです、後方は近所のおばさん、
二人とも良くモデルになって頂き感謝ばかり、また北さんには流しソーメンを数回ご馳走になりました。
或る日、TV朝日のニュースステーションのスタッフと一緒にソーメンを御馳走して頂いた事も、無茶苦茶美味しい。
常に千枚田に行くと北さんの顔を見るのを楽しみにしている(2003年5月 ・ 撮影)。
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021 (46) 夕暮れ Mieken Kiwacho
この光る棚田のギャラリーへ1番に和歌山有田川町清水の円田 あらぎ島 ・ 2番に丹後の新井の千枚田 ・3番に三重県の丸山千枚田を選んでいます。
規模では恐らく三重県の丸山千枚田が一番だと思っているが一眼で1,370枚の棚田です。丹後とあらぎ島は日帰りで行けますが、丸山千枚田は日帰りだと少し遠い、
関西弁でしんどいので一泊した方が色々撮影出来て便利だと思い常に宿泊しています。 写真は夕景でした(2014年5月 ・ 撮影)。
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021 (47) 光る棚田 Mieken Kiwacho
初代会長の北さんがカメラマンの為に山道を切り開いて撮影スポットを作られたと聞く、初期の頃です
共栄製鋼の高島成光さんはカレンダー制作の為、岡村哲師さんはこの作品で二科展初入選されました、
またこの作品は岡本哲師さんの作品です、私は車の光を演出しました。
上から下まで車のライトを灯して・・・ 時にはブレーキを数回踏み、点線を考えました。
撮影スポットでは大勢のカメラマンがシャッターを切っていたと聞きました。
下山して私に御礼の言葉をかけてくれました、協力出来た事と岡本さんの二科展入選を誇りに思います。
また参加の森敏子さんは高島さんや岡本さんの三脚を撮影スポットまで運んでで頂いたとの事・・・元気な方です。
カメラマンは元気が必要、元気な方程いつまでも撮影されています、皆さんも元気で頑張りましょう!!(2014年5月 ・ 撮影)。
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021 (48) 能登の夜 Ishikawaken Wajima
能登の千枚田の夜です、撮影ツアーで能登でも同じ様な状況で光跡を作りました。
当時、地元に近い守口市展の審査員を約10年程しました。
審査委員長は枚方市の巨匠、田中幸太郎先生です、関西でも当時長老で花火の写真家としても高名でした。
私のJPS展金賞(1981年)、湖北冬日記4枚組写真の際も関西から審査員として参加されました。
守口市展写真の審査員に迎えられて田中先生と一緒に審査しました。
その中で類似のこの作品は田中先生から協力に推されて賞になった記憶があります。
私の生徒だったので私も支持しました、田中先生は光のリズムが良いと褒めていました。
田中先生は花火写真の大家だけに光のリズムに感動されたのだと思う。
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021 (49) 夕景の頃 Nagasaki
私の生まれ故郷長崎の棚田です、撮影ツアーの頃すでに有名な被写体地でした。
私の希望で今迄6〜7回この棚田に行き近くの農家の方とも久しくしています。
人物の点景は近所の子供達にモデルになって頂き協力してもらいました。
何度訪れても日本海に沈む夕陽と合わせて棚田として日本有数な被写体地だと思います(1997年5月 ・ 撮影)。
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021 (50) 夕景色 Nagasaki Fukushimacho
この作品も撮影ツアーでした、日本海と棚田、すでに夕陽は終わり残照でした。
私の得意は点景には子供のモデルを配置、他でも良くモデルを使いました。
ツアー参加の吉永明美さん(二科会会友)が入選されたのが記憶に残っています。
数年後また訪れたら場所が分らず撮影を中止、2016年に行った所、棚田は耕作放棄されていた、
ここ長崎でも和歌山の有田川町楠本 ・ 沼地区と同じ様な事が起きている・・・残念(2002年5月 ・ 撮影)。
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