余呉湖 1
※作品は左から右に並べて展示しておりますので、
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右にスライドさせてご覧ください。
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007 (1) 文ェ門 shiga Yogo
フォトコンで発表、2016年文ェ門に行き近藤龍夫氏の湖北写真集(モノクロ)を拝見した。その中に同じ様な角度で文ェ門を
近藤さんも撮影、びっくりしました。近藤さんは二科会会員で湖北、琵琶湖をモノクロで発表されていました。私にとったら大先輩、
写真の歴史に残る作家だと思っています(1980年撮影)。
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007 (2) 雪景色 shiga Yogo
近藤さんの湖北でも2016・2月、ツアーの中で文ェ門さんが持って見せて貰いました。その中に偶然同じアングルの作品が入っていました、
わたしは真似した訳は無かったがこの場所のアングルは僅か1〜3m、樹と樹の間だから同じ感じになったと思います、消えた風景。
写真集琵琶湖の自然・No6で発表、自費出版。多くの作家が同じように撮影(近藤龍夫・山本健三)氏ら(1973年撮影)。
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007 (3) 雪の風景 shiga Yogo
稲架(ハサギ) 秋、刈り取った稲を干すものと思っています、当時はいたる所に有りました。特に余呉湖の畔は沢山残っていました、
被写体となってくれましたが、だんだん少なくなって近年見かける事はなくなりました。新潟県の方で少々残っています(1969年撮影)。
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007 (4) 消えた風景 ? shiga Yogo
雪が多いのがおわかりだと思います、何でもない風景ですが?記録として必要なのです。
湖北の稲架(はざ)・北陸本線で長浜を過ぎる頃から車窓にうつるみごとな稲架の列は、湖北の最も特色ある景観。湿田が多く、収穫時にしぐれが
頻繁なこの辺では、稲を稲架にかけてほさねばならない。写真の手前の様に、おもに木をはだかにして突き刺した物を万年杭、畦にハンの木を植えたものを
畦畔木という。万年杭は、親・子・孫3代の間もつといわれ、冬の雪空に立つ特異なシルエットは、なにか湖北のうらさびしさを思わせる。
1968年発行の文化地理に書かれている。 (1971年撮影)。
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007 (5) モノトーンの世界 shiga Yogo
カラーですが!!モノクロみたいになりました、雪解けの頃です(1972年撮影)。
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007 (6) 消えた風景 ? shiga Yogo
余りにも古過ぎて、フイルムにカビが付きました。52年の歳月、管理が悪いのも事実ですが?50年前のフイルムは痛みかけて来ました。
数枚カビがフイルムに出現、今後フイルムだと・・・出て来るかも知れません(1970年撮影)。
※アナログフイルムをお持ちの方はCDにデジタル変換して保存された方が良いでしょう、私も既に一万枚CDにしました。
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007 (7) 稲木 ? shiga Yogo
私は余呉の風景でこの様な作品が好きでした。非常に気に入ってます、しかしこの雪の上の杭は全部無く成りました。農業政策、
田園の農地改革近代化した稲の収穫、機械化それに伴って自然風景が消え行く、淋しい限り。その頃地元の人から戦国時代、
夜松明の代わりに灯りを杭に付け武将が沢山いる様に見せかけたと聞いた覚えがある、賎ヶ岳七本槍の時代!!(1972年撮影)。
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007 (8) 稲木 ? shiga Yogo
場所によって呼び名が(稲架)(稲機)(稲掛け)変えてる所も?天日干しに使用するもの・・・新潟市でははざ木と呼んでいた。一羽のトビが休んでいた。
この木が無くなって撮る気も失っている、写真集琵琶湖逍遥で発表(1982年撮影)。
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007 (9) 湖畔 shiga Yogo
この作品も消え去った風景です。トビが2羽、船が浮かんでいた、同じ風景は時間と年月で撮れなくなった風景
1991・5 月刊フォトコンテストのグラビア琵琶湖の自然の中で(3ページ6点発表、そのP26)発表(1982年撮影)。
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007 (10) ソフトレンズ shiga Yogo
秋山庄太郎さん・女性ポートレート撮影の第一人者。時々風景や花も発表されていた。花の撮影でソフトレンズを使用。
私も使ってみたくなった、私はペンタックス6×7と35ミリカメラを持っていたので、ソフトレンズ120ミリを買い、両方で使用した(1987年撮影)。
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007 (11) 蓮 shiga Yogo
余呉湖で蓮の作品が出て来て、何でだろう?と思われた方も・・・その昔蓮池が有りました、アジサイも・・・近くて撮影出来て早朝自由に撮影、
すごく良かったのに!!何時の日か消えて無くなりました、残念です(1984年撮影)。
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007 (12) 多重 shiga Yogo
ニコンFで撮影、巻き上げの時、巻き戻しのボタンを押して空回りさせて多重で撮影、良く多重撮影をしていました。
失敗も多く、画像がズレたりしました(1982年撮影)。
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007 (13) 湖と蓮 shiga Yogo
作品は良くないが余呉湖と蓮の写真として貴重である、余呉湖の蓮池が消えて撮影したくても撮れない、その様な時は、
記録写真に変わる。私のギャラリーの作品はその様な記録写真を多く発表している、写真は作品だけでなく数十年経過すると、
時々、貴重の作品となる(1985年撮影)。
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007 (14) 水面と蓮 shiga Yogo
同じアングルでギャラリーの物語のときにも作品は有りますが、余呉湖の蓮の作品は写真集の中で少ないので入れます。
写友森成雄さんがマミヤで金賞とは凄い事です、それはマミヤを使用してる方はプロもしくは写真スタジオの営業写真師、スタジオの
アシスタント、アマチュアでもハイクラスだったからです。ブローニー(6×9・6×7・6×4.5)は手軽でなく12枚撮り(フイルム)だから、めちゃくちゃ撮れません、
考えて撮影したものです、だからスナップには不向き、主に風景・花・ポートレート等の撮影が多かった(1978年撮影)。
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007 (15) 雪 shiga Yogo
余呉の蓮池へ冬に行って見ました、冬の蓮も味があります。花は無くても作品になります、先程のフォトジャパン(ダイコロ)の心象琵琶湖でも
太田さんは冬の蓮を2点選んでいます。私の写真集琵琶湖私景に発表、マミヤプレス6×9で撮影(1976年撮影)。
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007 (16) 雪の蓮池A shiga Yogo
雪の日を選んで行きました、蓮も色々と題材になります。撮り方によっては大作に?写団寝屋川の会員だった三宅信男氏は蓮で
香大賞(京都)を受賞した。秋山庄太郎さんは蓮が好きだったかも!!審査委員長だった(1974年撮影)。
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007 (17) 雪の蓮池B shiga Yogo
余呉湖畔の蓮池を知っている人は殆どいない。もし知っている人が居るとしたらその方は、相当古くから写真が好きだった方でしょう?
民宿文ェ門のマスターが余呉湖の蓮を知っている人は少ないと語っていた。
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007 (18) 一本の樹 shiga Yogo
雪の朝、大雪が舞っていた。樹が樹氷になり見てる間に雪の花の樹に変わった、積雪は既に1mを超えた、その時は恐ろしくなり
早めに余呉湖を撤退した、帰るのに帰れなかったら大変と思ったからである。今思うと何でも無い事だが車、道と現代とは事情が違う(1967年撮影)。
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007 (19) 黄色賞 shiga Yogo
この作品も2度目の登場です物語のときの中、毎日新聞社カメラ毎日で虹の写真集合で入賞しました。余呉湖で雪の上の朝陽が被写体です。
レンズに息を吹きかた、私にとって名作。1975年私はカメラ毎日年度賞を受賞、毎日新聞東京本社アラスカで表彰式でした。
その後カメラ毎日にアルバムのコーナーに作品を投稿したが載る事は無かった。当時編集部本多進次さん、編集次長だったと思う、
いきなり退社、申し送りで佐伯格五郎編集長に頼んだよと言葉を聞き楽しみに待っていたが・・・作品は後日戻って来た手紙が
添えてあって作品の色合いでブルーの色が強すぎて編集にそぐわないとの事だった(1980年撮影)。
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007 (20) 準備 shiga Yoga
ワカサギ釣りの準備をする所、1mは積った雪を除雪していた。余呉湖のワカサギ釣りは冬の風物詩
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007 (21)
私は何時ものように余呉湖へ撮影に向かっていた、雪の中を二人の老女が大きなビニールを覆い歩いてきた。私は慌てて車を止め、
シャッターを押した、雪国の風景に感動した、積雪は1m50位、猛吹雪だった、タングステンフイルムを使用し寒さを表現した(1973年撮影)。
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007 (22) 楽しい雪の日 shiiga Yogo
余呉湖の雪景色は関西人にとって当時の冬は必ず雪が見られた。町の人も休日は家族で楽しんでいた。
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007 (23) 白鳥が来たA shiga Yogo
たまたま白鳥が余呉湖に珍しく思ってシャッターを、後日文ェ門のマスターが余呉湖に白鳥が来たのは一回きりと語っていた。
私はその一回きりに出会ったのだと感動した物です。
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007 (24) 白鳥が来たB shiga Yogo
何時もの様に写友森さんと二人で余呉湖へ、夜の一時半に迎えに来た、湖西を通り余呉湖に着いたのは六時過ぎだった。
雪のため時間がかかった、後日 文ェ門のマスターが白鳥が余呉湖に来たのはこの作品の一日限りと聞いた。地元の人しか知りえない情報だと思う。
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007 (25) 秋の湖畔 shiga Yogo
この作品もかなり古く余呉湖の初期の作品。トビが三羽休んでいた、慌ててシャッターを押したが直ぐ逃げられた。鳥の撮影は近年、鳥との対決と
私は言っている、それは体験で逃げられてしまう為に如何に鳥が逃げないで撮影出来るかがポイントである(1966年撮影)。
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007 (26) 小屋 shiga Yogo
湖中に小屋が何時の日かあった、どんな小屋かは知らないが!!あんまり似合う物ではない。また何時の日か消えていた。
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007 (27) 船影 shiga Yogo
余呉湖の作品の中で私は好きです。船影でひっそり休む鴨、その後はこのシーンは有りません。
写真集琵琶湖の自然No6自費出版で発表(1976年撮影)。
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007 (28) 雨日 shiga Yogo
釣り人と余呉湖、雨の日だった。余呉湖で人物撮影は中々作品にしずらいので、この作品も貴重なのです(1982年撮影)。
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007 (29) 冬の日 shiga Yogo
国民宿舎側からの撮影、水面に映る山並みを入れて作画、タングステンを使用、冬の寒いイメージを表現した(1977年撮影)。
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007 (30) 凍る湖 shiga Yogo
余呉の水面が雪の形で面白い作品になった。時折こんな形があった(1971年撮影)。
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007 (31) 冬の湖岸 shiga Yogo
この作品は私がまだアマチュア時代、月例コンテストに夢中だった、フォトコンテストで入選したのを覚えている。奈良や京都の神社仏閣ばかり撮影していたが、
月例に応募しても予選通過もしなかったが、琵琶湖へ行きだして月例に応募したら、ちょこちょこ入選しだした。この作品はその頃の作品、思い出深い(1970年撮影)。
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007 (32) 飛び立ち shiga Yogo
鴨が湖岸に近づくと何時の時でもそうだが、人間との距離を保っている。近づくと逃げる、経験上、逃げるのを予測してシャッターを押した。
鳥のポーズはその当時は上手く云ったと思っていたが、近年は当り前で作品も普通になっている、デジタルだとこの様な場合50枚〜100枚のシャッターを
押している、だから失敗は殆ど無い。一秒間に10枚〜12枚位撮れる、この作品の当時2枚〜3枚だった、時代は変化し撮影も随分楽になった様な気分(1978年撮影)。
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007 (33) 霧の朝 shiga Yogo
雪の日、霧が発生した。稲木の向うは一面の銀世界、またこの様な出会いも少なかった。フォトコンテストに発表(1978年撮影)。
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007 (34) 雪の道A shiga Yogo
余呉湖の初期、家並みを見ると殆ど民家が少ない時代だったと分る。写友西嶋保介氏に案内して頂いた、大阪の都会の水に合わず
ストレスが溜まっていた。琵琶湖や余呉湖の自然に触れると気分が晴れた、また琵琶湖に行きたいと思った。西嶋保介氏はモデルになって
歩いて頂いた、演出写真である、その当時は土門拳・木村伊兵衛氏の時代はリアリズム写真が残っており、まだ演出写真は認めて貰うには時間がかかった時代。
西嶋}氏は時代を先取り演出写真を教えて頂いた(1965年撮影)。
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007 (35) 雪の道B shiga Yogo
No84と同じ日、偶然、向こうから老人が歩いてきた。チャンスだった、36枚撮りを使って撮影した。ただしこの場合は演出では無く、相手に黙って
シャッターを押した。50年がたち、この様な撮影は出来なくなった、人権問題があり相手の了承がないと撮影出来ない(1965年撮影)。
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007 (36) 湖水が消えた shiga Yogo
文ェ門のマスターによると余呉湖の水を琵琶湖に流した事があると聞いた。真ん中の形は魞(エリ)の後、
樹の根も撮影したが!!ネガが見つからない。
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007 (37) 船 shiga Yogo
船がポツリと余呉湖に撮影に行ったのに水の無い日にたまたまぶつかった。あまり気乗りせず撮影したが!!後日貴重な記録になった。
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007 (38) カップル shiga Yogo
余呉湖に車が降りていた。カップルが二組、デートの場所だったのかも!!珍しい写真、作品としたら弱いが
記録写真としたら、他の人が発表しているのを見た事は無い。
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007 (39) 余呉の歴史 shiga Yogo
土管、どんな意味があったか不明だが遠近感を出すのに強調してみた。車とか見ると相当古い作品だと思う。
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007 (40) 消えた集落 shiga Yogo
湖の東、余呉川の断層谷にそって、県境の栃木峠まで北国街道が通り、椿坂・中河内はかっての宿駅であった。柳ケ瀬で左に道をとれば、刀根越を経て
敦賀に至り、旧北陸本線はこのルートをとっていたが、柳ケ瀬トンネルは2.5%の急勾配で、しばしば運転に障害をひきおこした。昭和三十二年、
電化による北陸新線開通後、しばらくの間、旧線は柳ケ瀬線として残されたが、国鉄第一の赤字線となり、昭和三十九年には国鉄バス専用路に転用され、
トンネル入り口の万世永頼の文字(伊藤博文筆)も、時代の変移とともに空しいものとなった。なおこの辺りは、いわゆる伊香式民家の広く分布する地域で、
今はさびれた街道沿いに入母屋造の高い破風の上に妻飾りがある妻入の民家が並んでいる。余呉川・高時川の谷は北上するにつれ、冬季の積雪は多く、
全くの山村となり、薪炭を主とする林業に生計を依存し、高時川筋の最奥の六集落はやっと数年前に電燈がともり、集落ごとに分教場や積雪期臨時校舎がる。
1968年発行の日本文化地理に記事を引用(1977年撮影)。
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007 (41) 初冬 shiga Yogo
ダム建設予定で翻弄された集落の記録1975〜1976年当時、私はまだアマチュア作家、コンテストに明け暮れの毎日。
当時有名な映画、大島渚監督の愛のコリーダと云うロケが、余呉湖の奥、針川集落辺りであると聞いた。
映画は大好き、当時若い人の娯楽は映画・野球・ボーリング・パチンコ・ジャズダンス等、カラオケは無い時代。黒沢明監督の作品は
全部、高倉健・菅原文太・加山雄三の主演映画、また山田洋次監督渥美清寅さんシリーズは全作見た・・・映画は一般の人より多いと思う。
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007 (42) 菅並 shiga Yogo
ダムで7ヶ所の集落が移転すると云う話は聞いていた、その帰り道、菅並に寄ると菅並は移転しないとか?・・・国土計画・ダム・政治そのものは
全く無知だった。ただひたすら、写真作品は追いかけている私、晩秋の冬近くだった、40年前の出来事!!
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007 (43) ロケ地 shiga Yogo
映画監督大島渚氏の事をヌーベルバークとも・・・何の事か分らぬまま彼の映画を観ていた。また映画に憧れていて・・・写真学校出ても本当にプロになれるのか!!
映画のカメラマンでも・・・松竹に履歴書を送ろうと思ったが、不況で映画カメラマンの募集はして無く床山(散髪)だけ募集していた、それでも履歴書は送った。
カメラマンの仕事とは全く時限が違う、単なる映画撮影所に入社するのみ、更に良く聞くと映画のカメラマンになる為には、10年〜20年以上の下積みが必要・・・
好きだけでは夢物語、現実とはかなりかけ離れていた。良く考えて断念した(1978頃撮影)。
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007 (44) 廃屋 shiga Yogo
集落7ヶ所のひとつ小原にいきました。私が太陽賞を受賞すると、大阪芸大写真学科の学生3〜4人が遊びに来る様になった。
芸大の写真学科は1974年頃出来たと思う? 学科が出来て5〜6年、彼らの目標は一番身近で歳の差があまり無く
接しやすかったのかも知れない? その学生達を廃村に数人引き連れて案内した、生活道具が散乱していた(1978年頃撮影)。
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007 (45) 鷲見集落 shiga Yogo
鷲見集落の茅葺屋根の民家が点々と、多い時は100人もの人達が住んでいたと聞く(昭和35年頃)。撮影から8年後に訪れた時、
茅葺き屋根が幾つかトタンに変わっていた。2015年に再度訪れたら、家一つ残って無く、私はびっくりと云うより自分の記憶が失われたか!!と、
そちらの方を心配した。更に色々と取材して見ると、余呉の方面に全家屋移動したと聞いた、それはダムの計画があり、かなり進む予定だからです。
嘉田知事がもったいない運動をされていたので?ダムも一旦保留になったと後日聞いた、取材の中、松竹映画(1977年)八墓村のロケもこの集落で
撮影されたと聞いた(1976年撮影)。
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007 (46) 天女の樹 shiga Yogo
昔話、天女の8人姉妹が白鳥になって水浴びをしていた、それを見た伊香刀身と云う男が白犬に末娘の羽衣を盗ませた。姉7人は
天に舞い戻ったが、末娘は止む無く刀身と夫婦になり男女各2人の子供をもうけた後、羽衣を捜し出して天に帰って行った。
古書の帝王編年記の養老7年(723)の条ある話だとか・・・アートディレクターの粟津潔氏は私の作品を通じて天女の舞
滋賀県の観光ポスターを大々的に制作された。余呉湖文ェ門にポスターを飾ってもらった、文ェ門のママさんは写真を見て余呉湖と違うと
いきなり私に・・・私はその言葉に戸惑った、写真は琵琶湖のスケールの大きい残光の作品に天女が舞う着物が飛んでいる作品。
粟津潔さんは余呉湖のイメージで天女の舞を考えました(1972年撮影)。
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007 (47) 湖面の樹 shiga Yogo
私が余呉湖に足を向けた頃は湖畔に稲木がいっぱい見られた、近年整備されて見れない。自然さが失われている。
あらゆる川や湖もそうだが湖岸の開発で綺麗になっているが?自然の面影が失われて残念である。
余呉湖もゆっくり撮影すれば一日楽しめる場所、一周1時間もあれば歩ける。カメラを持ってあちこち眼を向けると被写体はいっぱいです。
近年 ツアーでは車で一周すると15分・・・何も無かったと・・・大きな被写体しか見て無いからです。民家(集落)も・湖の畔・樹の根・植物・
昆虫・野鳥等・・・早朝の光でオレンジ色、この作品もアマチュア時代コンテストに入選(1981年撮影)。
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007 (48) 造形 shiga Yogo
大雪の日、湖の中に面白い形が出来ていた、この作品の出会いも初めてであった。撮影中、作品はかなり良いものだと思った。後日、雑誌に採用され
思った写真が使用されると、写真家にとって満足である(1974年撮影)。
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007 (49) 残光 shiga Yogo
ポスターの作品です。アートディレクターの粟津潔氏はこの作品を気に入り直ぐ決めました。彼の頭の中に天女のイメージがあったのでしょう、
着物を投げ入れて天女が舞い上がる映像に考えました・・・文ェ門に柴田勝家が栃ノ木峠に建てた茶店をそのまま移築してある、月刊フォトコンテスト(1991・5月号)
琵琶湖の自然で発表、編集長は板見浩史氏だった。ポスターは色あせしているけど、文ェ門に飾ってある。
見学または宿泊したい方は電話 0749−86−2425・・・(1979年撮影)。
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007 (50) ポスター shiga Yogo
1983年 滋賀県は国体が開催される為に、アピールに大物のデザイナー粟津潔氏を起用した。一年間四作の作品を発表した、その作品の写真に
私が選ばれた。コピーライター今西彗氏から私が太陽賞を貰った1978年にお手紙が来て、仕事を一緒にしたいと言われました。
それから5年後、滋賀県が大々的に観光をアピールしたいと云っているので一緒にやりましょうということで、京都芸術短期大学、当時白川だったと思いますが、
粟津教授の部屋に作品2000点持参しました。教授はビール片手に僅か10分程で一年分の四作を選びました、そのスピードにびっくりしました。
後日、ポスターは全国の駅で掲示されました、その年の滋賀県知事は武村正義氏でした、ポスター展で入選しグラフィック年鑑に収載され、
私にとって写真人生で最大なものになりました。ポスターの周囲の作品40点は久谷政樹氏・同じく京都芸術短大教授のデザイナーが決めました。
同じメンバーで一年間製作に携わった。
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