あとがき

 大正9年生まれで今年97歳を迎えます。まもなく白寿を迎える私には大東亜戦争を避けては通れません。しかも戦地に派遣されたのは終戦の4カ月前でした。陸軍の経理学校を出た主計尉官の私は昭和20年4月旧満州四平の戦車学校に着任した。そして8月15日、武装解除されてシベリアへ抑留、過酷な4年間を酷寒の地で重労働に耐えました。
 入ソして4年目、それまで毎年秋が来て冬空に雪がチラチラと降り始めると「アァ、今年もダモイは駄目か」<ダモイ=帰るの意>とみんなで嘆息し、翌年の春を待つのであった。ところが4年目に、ダモイの兆候が見えて来ました。新しい下着に新しい上着とズボンが支給された。いよいよダモイだ。そう直感してみんなの顔が明るくなった。数日後、一同呼び出されて整列、外出した先には待ちに待った貨物列車がありました。列車は一路東へ、4年前に通ったバイカル湖の景色が再び目に入る。感慨深い。
 帰還船の停泊するナホトカの手前のハバロフスクで下車、徒歩でナホトカへ。此処には第一収容所、第二収容所、第三収容所があった。これらの収容所にはシベリア各地から集った洗脳者が来ており、各収容所から送られて来る捕虜に眼を光らせて過去に犯罪か、諜報機関にいた者がソ連軍の目こぼしになっている者がいないか、最後の篩にかけられる所です。第一、第二収容所を夫々2〜3日で通過、最後に第三収容所 (最後の関門) を通り、漸く帰還の運びとなった。
 ナホトカの海上には日本船「山澄丸」が見えます。日の丸の旗が甲板に翻っています。一人ひとりの名前が呼ばれ、日本側に引渡されて行きます。私の列の前で、乗船間際に同僚の稲田主計大尉が突如列から外された。意外なことで驚いたが声をかけることも出来なかった。そして私の番が来た。私は名前を呼ばれて日本側に引渡されると急いで船のタラップを駆け登った。
 酷寒のシベリアから生きて内地の土を踏みしめることが出来た私は既に30歳。日本は朝鮮戦争特需で機械産業も復興の兆しが見えた。私はこの高度成長の波に乗ってがむしゃらに働いたが、気が付くと70歳になっていた…。
 写真集「人生浪漫」PartⅠを出版してから早17年、PartⅡを出版して7年が経過、まもなく白寿を迎える記念として「グランド北海道」を出版することが出来ましたことは誠にありがたく、人生最後の写真集が上梓出来て大変嬉しく思っております。
 序文を頂きました元 国務大臣 鈴木宗男氏、二科会写真部理事長 森井禎紹氏、日本写真家協会会員 マツシマススム氏の三氏には貴重な玉稿を賜り、望外の喜びです。